太田述正コラム#11910(2021.3.21)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その23)>(2021.6.13公開)

 「戦国大名は破天荒な成り上がり者ではなく、無秩序な無法者でもない。
 伝統的な権威を排除して傍若無人な振る舞いをするバサラ大名ではなかった。
 その理由を説明する上で重要な論点が、大名御家や分国を「公儀」<(注79)>と認識する政治思想にある。

 (注79)「本来は公家という語が「おおやけ」[<ないし>こうけ]すなわち朝廷や天皇を指していたが、領主制による私的支配に由来する新たな公権力である武家政権成立後に武家である幕府及び征夷大将軍(将軍)と区別するために「公儀」という語も用いられるようになった。
 やがて、南北朝時代に入ると、北朝を擁する室町幕府(武家側)と南朝の吉野朝廷(公家側)の対立によって、自己が所属する公権力側を「公儀」と呼ぶようになり、その結果、幕府や将軍に対しても公儀が用いられるようになった。
 豊臣政権末期の政情不安定期に公権力を漠然と公儀と呼ぶ慣習が生まれ、江戸時代に入ると統一政権で諸領主権力間の唯一の利害調整機関となった江戸幕府を指して公儀と呼ぶようになった。ただし、地方では藩を指して公儀と呼ぶ習慣も残り、幕府のことを「公儀の公儀」と認めて特に大公儀(おおこうぎ)とも呼ぶようになったのは寛永期以後と言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%84%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AE%B6 ([]内)

 もちろん公儀は室町幕府および将軍のことを指して呼ぶことが一般的であった。・・・

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[傾聴に値する信長論]

 「・・・『信長公記』巻九.「安土御普請の事」と「安土の御普請首尾仕るの事」では、安土城の築城経緯が記され、特に安土城の内部の様子が詳しく記載されている。もっとも注目したいのは五階目の記述である。即ち、「六重目(五階目)〔…中略…〕釈門十大弟子等、釈尊成道御説法の次第」、安土城の五階目では釈尊が釈門十大弟子に説く仏法世界が顕現されていた。そして六階目には「三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢」など古代<支那>の先哲が描かれていた。この記載を見れば、信長は中国の哲学と仏教の教義を十分に受け入れ<ていた>よう(キリストのこと<こそ>全くなかったが)で、安土城を築城するきっかけとなった自分の信念、思想を示そうとしたのである。信長には宗教を無視する意思はなく、仏教嫌いでもなく、むしろ安土城こそが信長の世界観や精神面を反映する・・・ものと言えよう。
 <すなわち、>・・・信長は仏教嫌いではなく、むしろ仏教には好意を寄せる人間だと筆者は考えている。信長は上洛してから、本能寺で倒れるまでの十四年間に、日本を統一するため、中世からの精神的権威である比叡山を攻撃し、そして当時の最大宗教武装集団である本願寺に十年以上の合戦を挑んだ。この二つの事件は従来、信長が無神論者だから、宗教を信じず、仏教勢力と全面的に対決し、そして全ての神々を超えて自分を神格化しようとしたから起こったとの通説があるが、実は違っている。信長は無神論者ではなく、ただ宗教が政治に干渉することが嫌いで、それを排除する、つまり「政教分離」を狙うために比叡山と本願寺との対決を敢行したのである。敵対する宗教勢力と戦いながら、寺院の修繕もしばしば行った。無差別に宗教勢力を弾圧した形跡もなく、比叡山と本願寺を屈服させた後も、それらを徹底的に殲滅する行動もなかった。・・・
 革新者という評価について言えば、信長は楽市楽座政策を大きく進めていたが、通説のように、旧勢力の財源を強制的に奪い取るつもりはなかったのである。財源を潰すどころか、逆に信長は公家の領地と荘園を手厚く保護して安堵した。さらに、楽座は京都など伝統勢力の中心においては実施されておらず、従来の座は信長が死ぬまで保護されていた。
 それから見ると、信長が伝統を否定していたという通説は再検討せねばならない。
 軍事革命についても信長は他の戦国大名と異なり、優れた軍事能力を持ちながら、新武器には関心が深かった。従って、十倍以上の兵力を持つ今川義元を奇襲して倒し、それに、天下統一の中、鉄砲を活用して武田氏を長篠の戦いで殲滅することができた。しかし、・・・信長には優れた軍事能力があったが、奇襲で敵を倒す事は特に珍しいことではなかったし、また、戦場で鉄砲を大量に使用することも当時としては珍しい事ではなかった。ただ、信長が巧妙に地理条件を利用し、敵を誘い出して一撃で倒したことは彼の優秀さが遺憾なく発揮されたことを示している。
 天皇になりたかったという説も、当時の貧乏な朝廷にとっては信長が朝廷再興の希望の存在であったから出たきたものだ。信長と朝廷の間には対立があったものの、総じて言うと、朝廷と信長は相互共助の間柄であり、朝廷は信長がいなければまた貧乏に戻る恐れがあったし、それに対して信長は朝廷の大義名分を受けなければ天下統一の土台が崩され、天下布武が失敗する恐れがあった。言い換えれば、信長は旧勢力を破壊するために生まれた風雲児ではない。かれは応仁の乱後の混乱を収め、・・・武士を中心とする武家政権を再建しようとした人である。・・・
 <さて、>織田政権の性質をどう見るべきであろうか。筆者はそれを平氏政権でもない、幕府政権でもない「新武家政権」と考えている。その新しさとは、単に昔の武家政権と異なるだけでなく、その成立の正当性も単に武力から求められるものでもないのである。実際、義昭の退京後、信長は「天下のため」、「天下静謐」を理由として政権を運営し続け、義昭の存在を否定しないながら、独自の政権運営を始めた。
 中国地方で延命している旧室町幕府に対して、京都を手中に収め、安土を拠点とする織田政権が誕生した。つまり、日本国内に両政権の対立局面が起こったわけである。本能寺の変まで、義昭の将軍位が朝廷に否定されていなかったので、室町幕府が名義的だけでも存続していることは、織田政権に敵対する諸大名がそれを認めていたことによって肯定できる。一方、織田信長の政権が日本を支配したり、敵大名を征伐する正当性を敵である将軍が在位していることによって承認しにくく、それが織田政権のもう一つの特別な性格であり、その限界でもあった。・・・」(胡煒権(ウ・ウェイキュン)「織田信長の政権構想–「天下布武」の実態をめぐって–」より)
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/38808/20160119095703183247/ReportJTP_23_1.pdf

※胡煒権については、調べがつかなかった。
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 ・・・1572<年>9月28日、信長は義昭にたいし「当将軍へ信長より」で始まる十七ヶ条に及ぶ「異見書」<(注80)>を突きつけて、義昭の振る舞いを譴責した。・・・」(151、173)

 (注80)「信長は異見書で義昭の不正を批判しているが、彼に敵対する正当性を作ることこそが本当の狙いだったのであろう。義昭の振舞いがよいかどうかはともかく、この事件から見れば信長が義昭を勝手に片付けられなかったことが明らかである。勝手に片付けられないので、義昭を倒す名義がなければならなかったのである。
 以上から見れば、上洛した後に成立した幕府は信長の物でなく、足利・織田連合政権と言った方がよいであろう。」(上掲)

⇒胡の信長論は秀逸だと思います。
 遺された問題は、平氏政権でも幕府政権でもない「新武家政権」たる信長政権が掲げたところの、「天下静謐」とは、一体何だったのか、です。(太田)

(続く)