太田述正コラム#11968(2021.4.19)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その8)>(2021.7.12公開)

 「・・・明智秀満<(注21)>・・・は、もとは三宅弥平次と呼ばれ、光秀の重臣として活躍していた。

 (注21)「左馬助(左馬之助)の通称も有名。・・・『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子・・・であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。・・・
 1578年・・・以降に光秀の娘を妻に迎えている・・・。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。・・・
 本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、13日の夜、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗れたことを知る。そこで14日未明、安土を発して坂本に向かった。大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく坂本城に入った。
 14日、堀秀政は坂本城を包囲し、秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないがこれはどうしたのかと問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差す」と答えたとされる。
 14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E7%A7%80%E6%BA%80

 <1578>年11月の丹波攻略と荒木村重の伊丹城攻めの際は、在京する光秀の側近として控えていた。
 また、坂本城建造物の内装を担当する一方、津田宗及と同席した茶事も催していた。
 <1579>年以降、荒木村次<(注22)>(村重の嫡男)と離縁した光秀の娘の再婚相手となっており、以後は明智を名乗ったと考えられる。・・・

 (注22)?~?年。「本能寺の変・・・後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。・・・1583年・・・の賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参戦したが、足を負傷して以後は戦場に出ることは無く、代わりに弟・村基が仕えた。村次自身はその後も大坂に住み、秀吉には折に触れ謁した。秀吉死後は、徳川家康に召抱えられる最中に死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%AC%A1
 
 <ところで、1580>年以後は戦国の城を淘汰する時代に入っていた<わけだが、>丹波に限っては、明智一門、および国衆レベルにおいても、織豊系城郭の技術が拡散していた。
 丹波攻略戦が完了したにもかかわらず、恒久的な城を構築し続けていた事実は、少なくとも光秀は丹波に長く居座る意識が強かったことを示している。・・・

⇒これだけの情報では確たることは本来言えないところ、私が言うように、既に光秀が叛意を抱いていたのだとすれば、光秀が自分の根拠地に城をいくつも新設し続けた狙いは明白でしょう。(太田)

 元来、丹後国は14世紀末より一色氏が守護職を担っていた。<(注23)>・・・

 (注23)「一色義定<(?~1582年?)は、>・・・剛勇に優れ、父・一色義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。
 ・・・1579年・・・、義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり、抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後を長岡氏(細川氏)と分割統治した。
 中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後(現在の京丹後市)を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として、・・・1581年・・・の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも長岡氏(細川氏)と共に参戦している。・・・
 弓木城を居城にして城下町を形成し、丹後北半国を統治した。
 ・・・1582年・・・6月、山崎の戦いでは直接の上役である明智光秀に味方する。一方、長岡氏は上役である明智光秀に背いた。光秀は山崎の戦いに惨敗して討ち取られ、これがその後の義定の立場を決定的に悪くする要因となった。
 戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、9月に南丹後の長岡氏によって、長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も・・・討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。しかし、伊也は降伏の際に、懐剣で兄の細川忠興に斬りつけた。忠興はこれを交わしたが鼻を負傷した。忠興の鼻にはこの傷が深く刻まれ後々まで残った、と伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A

 1579<年>末になると、山城国西岡(にしのおか)の勝龍寺城にいた細川藤孝・忠興父子が丹後へ転封されることが決まった・・・。
 丹後国は光秀から、藤孝・忠興へ移管されていくことになる。・・・
 同時に、西岡支配と勝龍寺城は信長に返上されることにな<った。>・・・
 藤孝・忠興父子の丹後入国は翌<1580>年8月頃にずれ込んだようである。・・・
 藤孝は、日本海に通じる宮津湾沿岸の宮津を拠点とする。・・・
 以後、藤孝の丹後支配をめぐっては、信長と詳細に書面を交わして指示を仰いでいる。
 しかし、同時に両者の間には光秀が強く介在していた。」(137、143、145、147~148)

⇒軍事においては、上司とその更なる上司に両属することは私見ではありえないわけですが、行政においては、ありえます。
 それにしても、同じ丹後における「同僚」であり、かつどちらも足利氏の縁戚であったところの、細川(長岡)、一色の両氏の本能寺の変後の身の処し方が対照的で興味深いですね。(太田)

(続く)