太田述正コラム#12020(2021.5.15)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その16)>(2021.8.7公開)

 「秀吉は、早くから家康を通じて小田原北条氏の服属を求めたが、北条氏はそれに容易には応じなかった。
 1586<年>10月、家康が上洛し秀吉に臣従したことで、北条氏への働きかけは一層強められ、<1588>年8月には<当時の当主の>北条氏直の叔父である氏規<(注39)>が上洛したことで、北条氏の秀吉への臣従が定まったかにみえた。

 (注39)うじのり(1545~1600年)。北条氏康の四男で、<氏直の父の>氏政の同母弟<。>・・・
 いわゆる「小田原征伐」が始ま<ると、>氏規は最前線のひとつである伊豆の韮山城の守備を担当し、4万の豊臣方(総大将は織田信雄)を相手に3640余とされる寡兵で4か月以上の間抗戦するという善戦ぶりを見せたが、最終的には家康と黒田官兵衛の説得を受けて開城した。
 戦後は、高野山に蟄居処分となった北条氏直に従って高野山に赴いて蟄居した。のちに秀吉に許され、・・・<亡くなった後、長男・>氏盛・・・の領地<が>1万1千石となり、北条家は大名に復した。その子孫は狭山藩主として、明治維新まで存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E8%A6%8F

⇒秀吉の九州平定が始まった1586年7月時点では、(島津家から見て、)北条氏はもちろん、家康すら、まだ秀吉に臣従していなかったことは重要です。(太田)

 しかし、北条氏と真田氏とのあいだで、争奪戦が繰り返されていた上野沼田において、秀吉の裁定がなされたにもかかわらず、北条氏がこの地を攻め取ったことで、<1589>年11月、秀吉は、小田原の北条氏を誅罰することを決し<た。>・・・
 弾劾状<では、>・・・「天道」「天罰」を動員してその非を重ねて責め、さらには氏直が「勅命」に逆らうものとして、誅罰されるとする。
 これは一種のレトリックであり、島津攻めの時と同様、実際に勅命があった訳でもなく、また天皇から節旄<(注40)>・・・が下賜されてもいないが、北条攻めの正当性が勅命に求められている。・・・

 (注40)せつぼう。「 昔、中国で、天子から任命のしるしとして征将、使節に与えられた旗。旄牛(からうし)・・ヤク・・の尾の毛を竿の先につけたもの。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AF%80%E6%97%84-548488

 誠仁親王の<急>死から3カ月あまり後の11月7日、正親町天皇は<子の誠仁の子の>和仁親王に譲位し、後陽成天皇が位に就いた。
 そして同月25日、即位礼が執行された。
 正親町天皇の即位礼が財政的裏づけが得られず践祚から3年目にようやく執行されたのとは大きく異なっている。・・・
 それに先立ち、秀吉を太政大臣とする陣儀が持たれた。
 この秀吉の太政大臣任官に際して、後陽成天皇は、秀吉に豊臣の姓を与えた。
 即位の礼は、・・・後陽成天皇が高御座(たかみくら)に入御(にゅうぎょ)、そこに関白秀吉が高御座の南口から入り、後陽成天皇に灌頂<(注41)>(かんじょう)を伝授した。

 (注41)即位灌頂(そくいかんじょう)。「11世紀ないし13世紀から江戸時代にかけて、天皇の即位式の中で行われた密教儀式で、その内容は秘儀とされていた。一般的には即位式の前に摂関家、主に二条家の人物から天皇に対して印相と真言が伝授される「印明伝授」と呼ばれる伝授行為と、即位式の中で天皇が伝授された印明を結び、真言を唱える実修行為を併せて即位灌頂と呼んでいる・・・
 二条家初代の二条良実は、父である九条道家と不和で、有職故実に関する文書を一切引き継げなかった。そのため有職故実を重んじる鎌倉時代当時の状況下では、政治的に大きなハンディを持つことになった。
 当時、即位式に続いて行われる大嘗会で行われる神膳供進の儀では、天皇が摂関に儀式の作法についての助言を受け、それに基づいて儀式を進めていたが、伏見天皇即位時に関白を勤めていた二条師忠は、儀式進行に関する天皇からの問いに答えられず、苦境に立たされることになった。これは二条家に有職故実に関するめぼしい書類がなかったことによる。
 そのため、二条師忠は兄であり、天台座主を勤めた経験もある道玄の協力を仰ぎ、伏見天皇即位時に即位灌頂という新たなる儀式を始め、二条家が置かれた苦境から脱し、他の五摂家と対抗することをもくろんだという。これはまた、摂関が大嘗会で行われる神膳供進の儀で、天皇に儀式の進め方を伝授することが摂関の大きな存在意義となったことをヒントにして、摂関が即位する天皇に対して儀式の作法を伝授する、新たなる密教儀式を取り入れたことを意味しており、即位灌頂は摂関の存在意義の一つとなっていくことになる。
 この説によれば、二条家の都合がもとで開始された即位灌頂であるため、天皇の即位時、二条家が摂関を勤めていない場合、当初、即位灌頂は基本的には行われなかったものと推定する。。ただ、歴代の当主が室町幕府と江戸幕府の征夷大将軍の偏諱を受けるなど武家政権と親密であった二条家は、室町時代において摂関を勤める期間が他の五摂家と比べて長かった。自然、天皇の即位時に即位灌頂が行われる機会が増え、また、天皇家の側でも権威確立の手段の一つとなる即位灌頂を歓迎する面があり、やがて即位式に即位灌頂が定着していくことになる。・・・
 <ちなみに、>灌頂は元来、古代インドの国王即位や立太子の際行われた、灌頂水と呼ばれる水が即位する王の頭上に注がれた儀式であった。・・・
 日本に密教が伝来した9世紀に灌頂の儀礼が開始され、やがて密教の灌頂儀式が天皇の即位式に取り入れられ、即位灌頂が成立することになる。
 日本に密教を伝えた<支那>では、皇帝の即位式に灌頂儀式が行われた形跡はない。・・・
 1868年の明治天皇即位時には、即位式の神道儀礼化が追求された結果、仏教的な色彩は全て追放され、即位灌頂は廃止されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82

 この灌頂相伝は、本来摂家の二条家がほぼ独占してきたものである。

⇒通説では、この時の印明伝授者は秀吉ではなく二条昭実(上掲)なので、藤井は、異説を採る理由を明らかにすべきでした。
 なお、即位灌頂は、後深草天皇が最初に行ったとの説が有力ですが、大覚寺統の亀山天皇も後宇多天皇も行った資料が残っておらず、大覚寺統で行ったのは後醍醐天皇だけのよう(上掲)なのは興味深いですね。(太田)

 そして即位翌月の12月16日には近衛前久の女前子(さきこ)が、関白秀吉の養女として入内し、後陽成天皇の女御となった。
 形式的なものとはいえ、秀吉は天皇の外戚の地位に就いたことになる。」(179、184~185)

(続く)