太田述正コラム#12070(2021.6.9)
<藤田達生『信長革命』を読む(その15)>(2021.9.1公開)

 「洛中洛外図によって信長は<1574年3月、>存亡の危機を脱したとさえいえるのである。・・・

⇒1573年・・・8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻していた。
 上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため、・・・1574年・・・、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳城、女淵城、深沢城、山上城、御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず(金山城の戦い)。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため4月、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。
 ・・・1574年・・・、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。このため関宿城は結局降伏することとなった(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力<は>大きく低下していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
という、1574年3月前後の謙信と氏政との関係史を踏まえれば、謙信が、1573年8月以降、信長領になっていた越前
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
に隣接する越中
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%90%8D%E5%BA%B7%E8%83%A4
への侵攻を続けることができなくなっていたのは、氏政のせいだった、ということが分かります。
 1574年3月の時点では、まだ敵対関係になってはいなかった信長から贈られた洛中洛外図を謙信が受け取ったのは当たり前であると同時に、そのことは、歴史に何の影響も与えなかったと見ていいでしょう。(太田)

 <その信長は、>尾下成敏<(注44)>氏の研究によると、<1575>年11月以降、御内書・朱印御内書・黒印御内書(氏は便宜上これらを御内書とする・・・)を発給するという・・・。

 (注44)京大院博士課程単位取得満期退学、同大博士(文学)、京都橘第教授。
https://kenkyu.tachibana-u.ac.jp/ktuhp/KgApp?kyoinId=ymdogkymggy 

 尾下氏は、信長の御内書発給の背景として<、1575>年11月の公卿昇進–従三位叙任、権大納言・右近衛大将任官–を位置づけ、それ以降、遠国の佐竹氏・佐野氏・安藤氏・大友氏に対して官位叙任をおこなったり、大友氏や徳川氏に知行を宛行(あてが)ったことをふまえて、戦国大名とは区別して武家の棟梁ととらえるべきことを提言している。
 きわめて、説得力ある見解であるので、小著も従いたい。・・・

⇒ここは、私も首肯できます。(太田)

 既に岐阜時代の環伊勢海政権を黎明期の海洋国家とみたが、安土を首都とする新国家こそ、信長の構想した海洋国家の原型だった。
 伊勢海・日本海・瀬戸内海という三つの廻廊を押さえ、主要街道と琵琶湖という大運河を利用して、城郭を配置した有力港湾都市を結びつけ、流通網を整備し、朝鮮・中国・南蛮まで視野に置いた貿易をおこなうことが念頭にあったものと推測する。
 こうして獲得した卓越した資本力をもとに、数十万規模の兵農分離を遂げた精兵軍団を養い、国家的な統一を完成させ、さらなる商圏の確保のために、東アジアの外交秩序の再編、すなわち周辺諸国への出兵と有力港湾都市の占領・統治が次の課題になるはずだったと予想される。・・・
 本能寺の変の後、これらの政治課題への対処は、優秀な弟子というべき秀吉に委ねられることになる。・・・」(98、106、111、143)

⇒信長の「復古的な政治秩序への回帰志向を読み取」ったはずの藤田が、その舌の根が乾かないうちに、信長の、かくも革新的な政治秩序への志向を熱く語るというのですから、彼の頭の構造がどうなっているのか、私には理解できませんが、それはそれとして、このくだりは、信長が安土に拠点を定めた地政学的背景の説明として卓見だと思います。
 惜しむらくは、信長を突き動かしたところの、思想/世界観を、イギリスやオランダ的な、経済的動機に基づく帝国主義と同様なもの、と、藤田が解している点です。
 信長を突き動かしたところの、(私見では)日蓮主義、に、強いて最も近いものを選べと言われたら、止む無くではあるけれど、欧州カトリック勢力を世界侵略へと突き動かした思想/世界観である、反宗教改革的カトリシズム、を、私は挙げるところです。(太田)

(続く)