太田述正コラム#12124(2021.7.6)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その10)>(2021.9.28公開)

 「<1585>年に羽柴秀吉がおこなった紀伊雑賀衆の最終拠点太田城(和歌山市)への水攻め<(注14)>は、備中高松城水攻めと並び称される戦いだった。

 (注14)「太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、・・・水攻めに変更した。・・・水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。
 上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守重友は所領を没収された。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。・・・
 秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した。・・・また主な者の妻23人を磔にかけた。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。
 秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90

 この戦いは秀吉の和泉・紀伊攻撃のなかでもっともドラマチックな戦争であり、そこには国人・土豪に率いられた民衆が立て籠もっていたから、戦国時代の近畿地方に花開いた一揆の最後の抵抗を物語る出来事とみられてきた。
 同時に秀吉が、自軍に属していたかつての甲賀郡中惣メンバーである「甲賀衆」を、担当していた堤防が切れたことを理由に改易して、一揆勢力を一掃したことも重要である。
 秀吉は、この戦いで内外の一揆勢力を殲滅したのである。・・・
 戦後、秀吉が和泉・紀伊の地域社会に向けて実施したのは、戦争に巻き込まれた百姓たちの助命・帰村による農村振興と検地・刀狩<(注15)>による兵農分離にあった。

 (注15)「刀狩<は、>・・・鎌倉時代の1228年・・・に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものが、日本史記録上の初見で、後に1242年・・・には、鎌倉市中内の僧侶とその従者(稚児、中間、寺侍、力者など)に帯刀を禁止する腰刀停止令を出し、違反者の刀剣は没収し大仏に寄付するとした。また1250年・・・に第5代執権北条時頼は範囲を拡大し、市中の庶民の帯刀と総員の夜間弓矢の所持を禁止した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
 しかし、「百姓が武装することは禁止されておらず,去留の自由も認められていた。百姓が侍衆の被官として戦闘に参加する例も多く,土一揆,一向一揆のなかでも武器を手にして戦った。領主側も一揆鎮圧の過程で百姓からの武具没収につとめ,1576年・・・柴田勝家が加賀で実施した例などが知られている。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%80%E7%8B%A9-44956
 「秀吉は、・・・1585年・・・3月から4月に根来衆・雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強い・・・<たが、これは、>藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。・・・『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。・・・
 ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている。刀狩りは、1人当たり大小1腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9 前掲

 これは、その後の豊臣国分後におこなわれる「仕置」とよばれる占領政策の中枢に位置するものだった。・・・
 <1585>年4月22日付で発令された刀狩令は有名な<1588>年の刀狩令に先行して強制されたことで知られている(原刀狩令)。
 また「紀州国中惣百姓中」に宛てた同年閏8月9日付検地例は、紀伊ばかりか和泉においても強制されたものだった。」(184、186~187)

⇒「中世の日本刀は・・・合戦で・・・使用され<る場合は>、どちらかと言えば弓矢や長柄武器の補助的な立ち位置だった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
ことも勘案すれば、検地はともかく、刀狩は象徴的な意味しかなかった、と考えてよさそうですね。
 なお、幕末の近藤勇も土方歳三も農家の生まれでしたが剣術を学んでいますし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%AD%B3%E4%B8%89
現在のNHK大河の主人公の渋沢栄一も同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
 江戸時代においても、少なくとも富農が刀を使えた、ということは、日本刀だって保有していた、ということでしょう。(太田)

(続く)