太田述正コラム#12130(2021.7.9)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その13)>(2021.10.1公開)

 「・・・同時期、九州では島津氏によって、関東では北条氏によって、奥羽では伊達氏によって、ゆるやかな地域統合が進められていた。
 しかし、これはただちに天下統一へと収斂されるような動きではなく、メインストリームは分権化すなわち地域国家の自立へと向かう動きだった。

⇒この三氏の動きのうち、島津氏のそれだけは、趣旨が異なっていた、というのが私の見方であるわけです。(太田)

 秀吉が、<1586>年から翌<1587>年にかけて九州攻撃を、同18年に小田原攻めと奥羽仕置を強行したのは、これら分権化を志向するブロック大名の地域国家を解体・再編し、海外出兵可能な統一国家を構築するための侵略戦そのものだった。
 これが、この地域で執行された豊臣国分の本質なのである。・・・
 これに関わって特筆すべきは、天下統一戦を通じて家康をはじめ伊達政宗・上杉景勝などの大大名まで転封させたことである。
 旧主で織田氏家督であり秀吉に次ぐ正二位内大臣という高位高官にあった織田信雄<(注21)>でさえ、転封命令に服さねば即座に改易に処された。・・・

 (注21)「信雄<の>・・・織田一門の席次は、信忠、信雄、信包、信孝の順であり、信孝の上位に配されていた。・・・<すなわち、>1581年・・・の御馬揃えでは、信忠が率いた騎馬衆が80騎、信雄が30騎、信孝・信包が10騎であり、信孝とかなりの差があったと推測される。・・・
 改易後は下野国烏山(一説に那須とも)に流罪となり、出家して常真と号した。・・・
 <信雄(常真)は、>能の名手と伝わる。・・・1593年・・・、秀吉が主宰した天覧能を観た近衛信尹は、「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」との感想を残しており、また『徳川実紀』には聚楽第で催された能について、「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と記されている。
 <そして、>信雄の発言が能役者にとって貴重な指針になっていたとされる(『観世流仕舞付』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84

⇒少なくとも、父信長の信雄評価は高かったと思われます。
 ただ、信忠と大きく異なるのは、信忠とは違って、信長が信雄には日蓮主義教育を施した形跡がないことです。(太田)

 <ところで、>従来は、将軍ではない秀吉が武家政権とはまったく異なる政治構造の創出に迫られた結果、・・・豊臣氏を摂関家、豊臣一門および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の庶子を清華家(最上位の摂家すなわち豊臣宗家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する大名の家)格とする家格改革<であったところの、>・・・武家官位制<(注22)>・・・<の>導入<を行っ>たとみられてきたが、<これは、>正確な評価ではない。

 (注22)「室町幕府の武家官位は室町将軍家と一部の大名に限られていた。その後、織田信長とその一族<も>武家官位に叙任される。<しかし、>羽柴秀吉<の場合、そ>の関白、太政大臣就任に伴い、まず羽柴一族の武家官位叙任が行われ、並行する形で有力大名統制を目的とした武家官位整備が行われた。」
https://meitou.info/index.php/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D

⇒藤田には、「・・・本格的な武家官位制・・・<の>導入<を行っ>た」、と、「本格的な」を付けて書いて欲しかったところです。(太田)

 主従性の本質的な不安定性を補うために、より高度な支配体制を誕生させたと評価したい。」(223~224、226)

⇒意味不明です。
 ところで、1588年には武家官位叙任として、聚楽第行幸に関連したものと九州征伐の関連したもの、が行われており、後者中には、広義の毛利氏からは小早川隆景、吉川広家、毛利輝元の三名、島津氏からは島津義弘の一名が含まれています。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239152/1/shirin_074_6_816.pdf
 九州国分後、「義弘<は、>・・・義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているため、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されている。また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある。・・・1588年・・・に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され<、>以降、羽柴兵庫頭豊臣義弘(後に出家し羽柴兵庫入道)となる。一方、義久には羽柴の名字のみが下賜された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
というのですが、これまた、島津氏は、義久の全般的指揮の下、兄弟で協議して、反秀吉派と親秀吉派をでっちあげ、秀吉を含む世間の目を欺こうとした、というのが私の見方です。(太田)

(続く)