太田述正コラム#12140(2021.7.14)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その18)>(2021.10.6公開)

 「秀吉が、南欧勢力の世界戦略を見抜いていた可能性は高い。
 また<、彼は、>基軸通貨の銭から銀への推移に伴う、東アジア世界の経済秩序の混乱<(注26)>にも敏感に対応した。・・・

 (注26)「本格的に銭貨流通が盛んになったのは鎌倉時代からである。13世紀中葉ごろからの社会変動に伴い、銭貨流通は社会に広く普及した。室町時代に明から永楽通宝が大量に輸入された。15世紀後半になると、これら宋銭・明銭といった<支那>銭に信用不安が発生しており・・・、<その>理由として、15世紀半ばに明が国家的支払い手段を銭から銀に転換したため、国家的保障を失い、日本にも波及したものと考えられている・・・。当時、大内氏は撰銭令を出す対策を出しているが、その後を継いだ毛利氏の時代では、石見銀山によって、大量の銀を産出することに成功しているため、撰銭令を出す必要性が減じている・・・。・・・
 日本の中世期当時、朝鮮(高麗・李氏朝鮮)では銭貨を独自に自鋳し、ベトナムや琉球でも断続的ながら銭の自鋳を行っていたが・・・、これに対し、ジャワでは中世日本と同様に<支那>銭と模倣した私鋳銭が使用されており・・・、これは<支那>の影響力の強い国ほど銭を自鋳する傾向にあることを示しており・・・、その対極が中世日本とベトナムであった・・・。この差異は、朝鮮やベトナムが<支那>と隣接し、常に圧迫を受け、対外戦争の脅威にさらされていたことにもよる・・・。
 宋側は銅銭流出を禁じていたため、宋銭流出は基本的には密貿易であり、その担い手は民間商人であった・・・。日宋貿易で輸入された銭の総量は2億貫にものぼり・・・、土地売買の証文も鎌倉初期は、米による売買が60パーセントに対して銭40パーセントだったものが、末期(14世紀)には、米15パーセントに対して銭85パーセントに変化しており、依存度が高まっている・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E8%B2%A8
 「明代に一条鞭法<(コラム#12074)>という租税銀納制度が洋銀(メキシコドル・墨銀)の流入により実施可能となっており、ここに銀本位制度の下地があった。15世紀において、明が支払いを銭から銀に変えたことは、結果として、日本国内において<支那>銭に対する信用不安を生じさせることとなった・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6

 このような世界史的動向に対応して、短期間における天下統一を実現したばかりか、預治思想に基づく新たな公儀権力を確立して強大な兵営国家を建設し、それを吉として対外戦争を開始したのである。
 研究史的にみると、階級闘争史観のほかにもうひとつ有力な見解があった。
 中世とは領主制の時代であると規定して、室町時代を守護領国制、戦国時代を戦国大名領国制とし、後者を「在地領主制の最終形態」とみて、その構造的矛盾の止揚を経て天下統一が実現したとする学説である。
 草深き農村社会から形成された在地領主制による段階発展論として大名領国制を位置づけ、その展開と再編の結果、統一権力が誕生したと理解するのだ。
 これも、首都・都市と地方・村落というコントラストによる後者の勝利を描く闘争史観というべきものであり、いまだに大名領国制論を奉じる戦国大名研究者も少なくない。・・・
 1980年代から90年代にかけて上記<2>学説の綻びが目立ち始めた頃、彗星のごとく登場し学界を席捲したのが「豊臣平和令」<(コラム#12016)>という見方だった。・・・」(259、262~263)

⇒その後に、藤田自身の説の復習的記述がなされていますが、彼の説についても、ご承知の通りであり、省略します。
 本シリーズ冒頭で紹介した、middrinnさんのコラムでは、「<この藤田達生の>書<は>・・・、一貫性を欠く論述や矛盾、初歩的ミスが散見<される。>」
https://yomunjanakatsuta-orz.blog.ss-blog.jp/2016-03-02 前掲
とした上で、具体例群が挙げられていますが、目を通されるように、ここで、改めてお勧めしておきます。
 なお、上掲middrinnコラム中に、「金子拓<(注27)(コラム#12086)>[ひらく]『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書,2014)(^^) 同書270頁<からの、「>信長のばあい、・・・ましてや俗に〝鉢植え〟と呼ばれるような大名の封地替えまでには(直属の家臣以外は)当然のことながら、彼の権力はおよんでいない。/秀吉の構築した支配体制が徳川幕府に継承されてゆくことを考えれば、信長と秀吉のあいだには大きな 断絶がある。秀吉の時代を近世の始まりとしていいのなら、信長の時代は、いまだ中世の色合いが濃厚に残っている。<」>」というくだりが出てきますが、(これも、次の東京オフ会「講演」原稿で詳らかにしますが、)私は、秀吉は信長のやろうとして果たせなかったこと万端について、基本的に、着手したり、完遂したりしただけだ、と、また、家康は、秀吉がこうして着手し、完遂したものを、一部の例外を除いて、そのまま凍結し、継承した、と、見ているところであり、金子とも見解を異にしています。(太田)

 (注27)1967年~。東北大文(国史)卒、同大院赤瀬課程後期単位取得退学、同大博士(文学)、東大史料編纂所助手、助教、准教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E6%8B%93

(完)