太田述正コラム#1406(2006.9.13)
<レバント紛争がもたらした大変化(その1)>

1 イラン・シリア・ハマス和解へ?

 レバント紛争でのイスラエルの勝利により、ヒズボラの牙が抜かれたことで、中東情勢は大きく変化しつつあります。
 大きな変化とは、米国とイラン・シリア・ハマスとの間における和解ムードの高まりです。
 以下、個々に見ていきましょう。

2 イランとの和解?

 安保理決議のウラン濃縮停止期限の8月31日を無視したイラン政府でしたが、ウィーンで開催されているEUとの協議の中で、このたび、EU等との本格協議が行われる間、暫定的にウラン濃縮を停止しても良いという意向を示しました。
 5月に、イランがウラン濃縮を停止するなら、米国もイランとの本格協議に加わる用意があると語った米国のライス国務長官は、上記のイランの意向が明らかになったことを踏まえ、イランが濃縮を停止するなら、米国は本格協議に加わると述べました(注1)。

 (注1)このようなイランの姿勢の変化を見越したように、米国は国交のないイランのハタミ(Muhammad Hatami)前大統領の米国訪問(ハーバード大学での講演等が目的)を認め、ハタミは米国を訪問したところだ。
 
 こうして、テヘランの米国大使館占拠事件以来25年以上にわたって途絶えていた米国とイランの間の直接接触が再開される可能性が高くなってきました。
 イランの方針転換は、アフガニスタンとイラクと国の東と西に米軍が駐留している状況下で、米国の同盟国であるイスラエルを牽制してきた(イランの手先である)ヒズボラの牙が抜かれたためだろうという分析が一部でなされています。
(以上、
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/HI13Ak01.html、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/11/AR2006091100766_pf.html
(どちらも9月13日アクセス)による。)
 私自身、イスラエルないし米国によるイラン核施設等への武力行使がいよいよ目前に迫ってきたという認識から、イランが核開発放棄へと舵を切ったのではないか、と見ています。

3 シリアとの和解?

 9月12日の午前10時頃(現地時間)、シリアの首都ダマスカスの大統領府(一説ではアサド大統領の邸宅)近くの米国大使館(注2)を二台の車に分乗した4人の男が襲撃し、手榴弾やロケット弾を撃ち、爆弾を爆発させようとしましたが、シリアの治安要員と(米国大使館を警備していた)米海兵隊員との間で15??20分間にわたる銃撃戦になり、犯人中3人は死亡し、1人が重傷を負って拘束され、爆弾の爆発も未遂に終わりました。他方、シリア治安要員は1人が死亡し、3人が負傷しました(1人は重傷)。

 (注1)レバノンの元首相のハリリ(Rafik Hariri)暗殺の犯人はシリアであるとして、2005年2月以降、米国はシリアから大使を召還しており、大使不在のまま代理大使(charge d’affaires)の下、大使館員40名が勤務している。
 
 米大使館員は無事でしたが、シリア人の警備員1人が負傷し、また、巻き添えになって、(中共の大使館員1人を含め)11人の部外者が負傷しました。
 犯人らは「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫んでいたことからも、イスラム過激派であると考えられています。
 これに対し、米ホワイトハウス報道官及びライス米国務長官がシリア政府に感謝の意を表明しました。
(以上、
http://www.guardian.co.uk/syria/story/0,,1870957,00.htmlhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/12/AR2006091200345_pf.htmlhttp://www.nytimes.com/2006/09/12/world/middleeast/13syriacnd.html?ei=5094&en=21282f804542a2e3&hp=&ex=1158120000&partner=homepage&pagewanted=print
(いずれも9月13日アクセス)による。)
 シリア政府は、これまでしばしば「官製」デモに外国の大使館を襲わせてきました。
 例えば、2000年には反米デモ隊が米国大使館を襲って乱暴狼藉を働きましたし、昨年冬のデンマークのムハンマド風刺漫画事件(コラム#1069以下)の際には、デモ隊がデンマークとノルウェーの大使館を焼き討ちしました。
 その一方で、シリア政府は、国内のイスラム過激派に対しては極めて厳しい姿勢で臨んできました。
 1982年には、現大統領の父のハーフェズ・アサドは、モスレム同朋会の蜂起を鎮圧するため、シリアのハマで2万人の人々を殺害したとされています。
しかし、爾後なりをひそめていたイスラム過激派の活動が、大統領がバシャールに代わってから再び活発化してきており、2004年にはダマスカスの官庁・大使館街の近くで自動車爆弾を爆発させたのはイスラム過激派とされていますし、3ヶ月前にも、ダマスカスの国営TV局ビルを小銃を携えて襲撃しようとした4人のイスラム過激派の男が射殺されています。そこへ、今回の事件が起こったわけです。
襲撃対象こそ米国大使館でしたが、今回の事件はシリア政府に対する攻撃であるとも言えるでしょう。
 これは、シリア政府が、ハーフェズの時代からレバノンのヒズボラやパレスティナのハマス、イスラム聖戦機構といった外国のイスラム過激派を支援するとともに、バシャールになってからは、2003年の対イラク戦以降、密かにイラクにおける反米スンニ・イスラム過激派の支援まで行うという、国内での弾圧と海外での支援という綱渡り的政策をとってきたことの当然の報いであり、アサド政権が、今次レバント紛争に関し、口先だけイスラム過激派寄りのスタンスをとりつつも、(レバント紛争の北方戦域に係る)安保理決議を結局は受諾したのを見て、イスラム過激派が真っ向からアサド政権に挑戦し始めたことを意味するのではないでしょうか。
 (以上、最後の段落の後半の「アサド政権が・・ないでしょうか。」の箇所を除き、
http://www.time.com/time/world/printout/0,8816,1533954,00.html
(9月13日アクセス)による。)

(続く)