太田述正コラム#1416(2006.9.22)
<安倍晋三について(その1)>

1 始めに

 安倍晋三(1954年??)官房長官が自民党総裁に選出され、首相に就任することになりました。
 彼に対しては、恐らく、今後このコラムで厳しい批判を投げかけていくことになると思いますが、今回はその門出のはなむけとして、できるだけ客観的にそのプロフィール等を追ってみたいと思います。

2 日本史の節目で活躍した祖先

 (1)父方
 安倍晋三の父方の祖先は、前九年の役(1051??1062年)で滅亡した蝦夷の長、安倍一族の族長、安倍貞任の弟、安倍宗任であるとされています。
 「安倍一族を滅ぼした<源氏の棟梁にして陸奥守である「官軍」の総帥、>源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて・・頼義の領地・伊予国に連れてきた」のだそうで、松浦水軍で有名な松浦氏もその子孫であるといいます。
 (以上、
http://www.kajika.net/furusawa/20060709-2.htm
(2006年9月22日アクセス)による。)
 前九年の役は、「金・駿馬・・といった奥六郡の財宝と、安倍氏掌握の北方交易によるアシカ、アザラシの皮などの珍宝・・を、頼義が手に入れるための私戦に等しい」
http://www.iwate-np.co.jp/sekai/sekaiisan/sekaiisan12.htm。9月22日)、言ってみれば、権力を笠に着た新興勢力による土着勢力いじめだったわけで、さぞかし宗任らは無念やる方なかったことでしょう。
 しかし、一族を滅ぼした憎き敵に情けをかけられて宗任及びその子孫は生き延びることができたわけであり、彼らはその敵であったところの、前九年の役やその続編とも言える後三年の役で力をつけた新興武家勢力が、内ゲバである源平の戦いを経て、朝廷に代わって日本の権力を握るプロセスを、故郷から遠く離れた地で反権力意識を心底に潜めつつ複雑な思いをして見守り、複眼的歴史観を培ったことと思われます。
 安倍一族の末裔としての矜恃と反権力意識、そして複眼的歴史観を身につけていた考えられるのが、晋三の祖父、安倍寛(かん。1894??1946年)です。
 寛は、山口県出身で、東大法学部を卒業後出身地の日置村長、山口県議を経て、衆議院議員に当選するのですが、大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人物として知られ、大変に人気が高く、「今松陰」「昭和の吉田松陰」と呼ばれていたといいます。
特筆されるのは、彼が時の権力に阿ることも時代に流されることもなく、先の大戦中の1942年の翼賛選挙に、大政翼賛会の推薦を受けずに無所属で出馬し当選したことです(注1)(注2)。
(以上、安倍寛については、
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B0%C2%C7%DC%B4%B2/detail.html?LINK=1&kind=epedia
(9月22日アクセス)による。)

 (注1)この翼賛選挙(直接的にはその鹿児島2区の選挙)について、大審院の吉田久裁判長は、大戦中の1945年3月の判決で、大政翼賛会によって推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけが行われるなどさまざまな妨害が加えられたことから、「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘した(
http://blogst.jp/momo-journal/daily/200608/10
。9月22日アクセス)。安倍寛のような議員や、このような裁判官が存在できたことは、これまでも累次申し上げてきたように、大戦中の日本で、なお自由民主主義が機能していたことを示している
 (注2)朝鮮日報は、「安倍氏の看板は家柄だ。元首相の孫、外相の息子という血筋は韓国でもよく知られている。」と報じた
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/14/20060914000025.html
。9月15日アクセス)ものの、惜しいかな、安倍寛や、ご先祖様の阿部一族のことまでは触れていない。

 晋三の父親の安部晋太郎(1924??91年)については、比較的よく知られています。
 晋太郎は、東大法学部を出てから毎日新聞に入社し、岸信介(後述)の長女と結婚し、そのご縁で、岸が外相に就任した時に外相秘書官となり、更に岸が首相になると首相秘書官になります。その後、本籍地の山口から総選挙に立候補して当選し、農林大臣・官房長官・通産大臣・外務大臣、自民党幹事長等を歴任しますが、ついに目指した首相になることなく、志半ばで病死します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E
。9月22日アクセス)。

 (2)母方

 晋三の母方の祖父の岸信介(1896??1987年)を知らない人はいないでしょう。
 岸は、山口県に生まれ、東大法学部を優秀な成績で卒業した(コラム#818)後に農商務省に入省し、日本型経済体制の構築に内地と満州国で辣腕をふるいます。先の大戦直前に東條内閣に(商工次官から)商工相として入閣し、軍需の面で戦争遂行の一翼を担います。1942年には上述の翼賛選挙で衆議院議員に当選します。1944年、戦況悪化を憂慮し、戦争終結を図るために危険を顧みず、東條が行おうとした内閣改造に閣僚辞任を拒んで抵抗し東条内閣を総辞職に追い込みます。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されますが、不起訴となり、以後、自由、民主両党の保守合同を導き、1956年に石橋湛山内閣に外相として入閣し、2カ月後に石橋首相が病に倒れたことで後継首相になります。そして反対運動に屈することなく安保改訂を行った後に首相を辞し、1979年に政界を引退しました(注3)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060915/mng_____tokuho__000.shtml
(9月15日アクセス)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
(9月22日アクセス)、及び拙著「防衛庁再生宣言」234??237頁)。

 (注3)私は、戦前の岸も戦後の岸も、その功績を高く評価しているが、晩年の岸の統一教会との深い関係はいただけない。晋三がこの関係を引きずっていることは懸念材料だ。

 なお、岸の弟に、やはり首相を務めた佐藤栄作がいますが、そこまで手は広げないことにしましょう。
 晋三は、「私は政治のDNAは安倍晋太郎より岸信介から受け継いだ」と語っており、著書「美しい国へ」(文芸春秋)の中で、自らの政治信念の根底に、自らが6歳だった1960年に日米安保条約改定を成し遂げた、この祖父への尊敬の念がある、と記しています(注4)(東京新聞上掲)。

 (注4)「祖父はこのとき、この片務的な条約を対等にちかい条約にして、まず独立国家の要件を満たそうとしていたのである。いまから思えば、日米関係を強化しながら、日本の自立を実現するという(中略)きわめて現実的な対応であった。・・祖父は(中略)国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。・・世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。」

 しかし私には、晋三が、安部晋太郎、すなわち安倍一族から受け継いだDNAにもっと誇りを持つべきだと思うのです。

(続く)