太田述正コラム#12190(2021.8.8)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その14)>(2021.10.31公開)

 (3)貞明皇后

 広島浅野家のところで、貞明皇后(コラム#937、8196、8296、9902、9918、11274)が、日秀(と完子(さだこ))の子孫であることを知り、(今まで気付かなかった自らの鈍感さを反省しつつ、)瞠目しました。
 となると、貞明皇后が日蓮宗信徒であっても何の不思議もない、ということになります。
 つまり、下掲のような原武史(注17)(コラム#3123、7022)の発言の前段はピンボケも甚だしい、ということです。↓

 (注17)1962年~。早大政経卒、東大法院博士課程中退。国立国会図書館職員、日経記者、東大車検助手、山梨学院大助教授、明治学院大助教授、教授、放送大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E5%8F%B2

 「明治の皇后美子(昭憲皇太后)と大正の貞明皇后は小さい頃から日蓮宗(法華経)に帰依していて、それを宮中に持ち込んでいる。昭和の皇后良子(香淳皇后)は戦時中からキリスト教の聖書の講義を宮中で受けていた。・・・
 宮中にこれほど宗教が入り込んだのはなぜ・・・か<。>
 結局、明治政府が「神道は宗教ではない」としたことが大きいでしょうね。あれは祭祀なんだ、と。そうすると宮中にいる人たちは何によって安らぎを得ればいいのか。本物の宗教に行くしかなかったと思うんです。・・・
 『昭和天皇実録』によると、1945年7月30日と8月2日に昭和天皇は香椎宮と宇佐神宮に勅使を派遣して戦勝を祈願させている。敗戦間際の土壇場で、勅使が伊勢ではなく香椎と宇佐に行ったというのは大きな謎です。これは皇太后の意志だとしか思えません。神功皇后は応神天皇を妊娠したまま三韓征伐を行った。つまり三韓征伐を前提にしなければ、絶対に出てこない発想なのです。」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42567?page=3
 「香椎宮<は、>・・・古代には神社ではなく霊廟に位置づけられ、仲哀天皇・神功皇后の神霊を祀り「香椎廟(かしいびょう)」や「樫日廟」などと称された。「廟」の名を持つ施設として最古の例であったが、平安時代中頃からは神社化し、類例のない特殊な変遷を辿った。・・・
 古代に神社と霊廟がどのように区別されていたかは明らかでないが、日本土着の信仰としてではなく、<支那>・朝鮮の宗廟思想を背景として創建されたする指摘があり、中には異国の祖廟とする説もある。文献では香椎廟と新羅との深い関係が見られ、新羅と事があるごとに奉幣が行われている。ただし日本・新羅間が最も緊張した斉明天皇・天智天皇の時期(7世紀後半)に記事は見えず、文献上では・・・728年・・・が初見になるため・・・、史実の上でもその間の創建とされる。
 香椎宮の鎮座する糟屋郡一帯は、6世紀前半の磐井の乱に際して筑紫君葛子から糟屋屯倉として献上され、ヤマト王権の朝鮮半島進出の足がかりをなしたことが知られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%A4%8E%E5%AE%AE
 宇佐神宮の祭神は、神功皇后と応神天皇と宗像三女神。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE

 但し、終戦間際の香椎宮と宇佐神宮への勅使派遣が貞明皇后の意志だったとする原の推測には私も同意です<(注18)>が、それは、タテマエは戦勝祈願であったかもしれないけれど、彼女が、神功皇后を自分に、応神天皇を昭和天皇、に重ねつつ、(神功皇后を、事実上の天皇家の祖(コラム#11999、12001)、と、私同様、考えていた可能性が高い)彼女が、対外干渉戦の敗戦と天皇制終焉の可能性を引き換えに日蓮主義をほぼ完遂することに成功した旨を、発祥当時から大陸と密接な関係のあったところの、天皇家の祖たる、神功皇后とその息子の応神天皇、に対して、自分の息子の昭和天皇を通じて報告させたのだろう、というのが私の見方です。

 (注18)「貞明皇后は<一九>二二年三月、九州北部を詣で・・・香椎宮で・・・祈っ<ている>」
http://gunzo.kodansha.co.jp/39016/39848.html

 彼女は、満州事変/日華事変/大東亜戦争を行わせたのは自分である、という自覚すらあったのであろう、とも想像しています。
 そこで、この貞明皇后(節子)についてですが、彼女は、こういう幼少期を送っています。↓

 「1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。
 同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ。
 大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

 さて、貞明皇后の御先祖様である、日秀についての説明は不要でしょうが、やはりご先祖様であるところの、その子の豊臣秀勝(1569~1592年)のことも振り返っておきましょう。
 秀勝は、従四位下・参議の岐阜13万石の大名として文禄の役に出征するも戦病死し、京都の日蓮宗の善正寺に葬られた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D
のに対し、秀勝の同父母兄の秀次は、正二位・関白左大臣になっていたけれど文禄の役に出征しないまま、1595年に秀吉に一族もろとも誅殺され、同じ善正寺に葬られます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
 この秀勝の子が豊臣完子(1592~1658年)であるわけですが、完子は、父の秀勝が亡くなった後、1595年に、実母の「江が徳川秀忠と再婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われる。淀殿は彼女を実の子として大切に養育し・・・<関ヶ原の戦いの後の>1604年・・・6月3日、九条忠栄(後の幸家)に嫁<がせるが、この>・・・婚儀に際しては淀殿が万事整え、・・・その華やかさは興正寺の夫人や娘たちが「九条家嫁娶見物」するほどであった<上、>義弟の秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90
ところ、後陽成天皇は、秀次とその眷属が悲惨な最期を遂げたことに、憐憫の情を抱いていただけでなく、責任も感じていた、というのが私の見方であり、だからこそ、同天皇は、「日秀<のために、彼女が>1596年<に、>・・・京都・・・に瑞龍寺を建立<すると、>・・・1000石の寺領を寄進し・・・、後に皇女や公家の娘が門跡となる比丘尼御所(俗にいう尼門跡)として、「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院<へと盛り立て>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
ことに加え、そう遠くない将来(1608年)に関白任官が予定されていた九条忠栄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90
の正室へと(1604年に)日秀の孫の完子を実質的に橋渡しをしたのでしょう。
 私は、完子が、「1615年・・・に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である秀忠の養女となっ<た>」(上掲)ことについても、後陽成天皇の事実上の働きかけがあった、と、ふんでいます。
 その目的は、完子の権威を更に高めて、彼女の子孫を公家と武家の間で拡散させることによって、日本において日蓮主義を維持・普及させることにあった、と。
 九条家は、このような後陽成天皇の真意を十二分に承知し、(それまで、先祖が、武家の歴代権力者達に媚びを売って天皇家に散々迷惑をかけてきた(コラム#省略)ことの反省の上にも立って、)爾後、代々、同家の女子達を、公然、ないしは非公然の日蓮宗信徒にすることによって、同家においても、日蓮主義の灯を消さないように努力を続けた、と、見るに至っています。

(続く)