太田述正コラム#1425(2006.9.29)
<「東京ローズ」の死>

1 始めに

 かつて「東京ローズ(Tokyo Rose)」と呼ばれた、アイヴァ・イクコ(郁子)・トグリ(戸栗)・ダキノ(Iva Ikuko Toguri D’Aquino)が、シカゴで90歳で亡くなりました。
 彼女のことについては既にご存じの方も多いと思いますが、彼女の死が英米のメディアで大きく報じられている一方で、日本のメディアはAP電に依拠したおざなりな報道しかしていないので、この際、トグリの生涯をご紹介することにしました。
 (以下、事実関係は、
http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,,1882241,00.html
(9月28日アクセス)、及び、
http://www.fbi.gov/libref/historic/famcases/rose/rose.htmhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5389722.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5388658.stmhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-me-rose28sep28,0,7811832,print.story?coll=la-home-worldhttp://www.nytimes.com/2006/09/28/world/asia/28rose.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20060928/20060928a3470.html
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4163442804
(いずれも9月29日アクセス)による。)

2 トグリの生涯

 トグリの生涯はざっと次のとおりです。

1916年:米独立記念日にロサンゼルスに、日本人移民の両親の下に生まれる。
1940年:カリフォルニア大学ロサンゼルス校動物学科を卒業。
1941年:おばの看病と医学履修のために東京に渡る。しかし、帰米しようと、(パスポートなしで来日していたので)米領事館にパスポートを申請。しかし、日米開戦となり、日本に取り残される。彼女は日本国籍取得を拒んで他の在留米国人同様に収容されることを希望したが認められず、他方、配給も得られなかったので、働くことを決意し、日本語の勉強に励んだ。
1942年:同盟通信に英文タイピストとして勤務。
1943年:NHKに移る。当初は英文タイピストだったが、乞われて、対米兵情宣英語ラジオ放送番組の「ゼロ・アワー」のディスクジョッキー兼アナウンサーに就任した。NHKの情宣ラジオ番組はほかにもあり、同じような役割の女性も他に何人もいたが、彼女だけが米国籍だった。これら女性は、日本の情宣番組を聴取していた太平洋各地の米兵から、「東京ローズ」と総称されるに至った。なお、「ゼロ・アワー」の監修者は米国生まれの日本人2人だったが、実際に番組制作にあたったのは、放送経験のある連合国軍の英国軍人以下3人の捕虜達だった。この捕虜達にトグリは、身の危険を冒して、食糧や医薬品を提供し続けた。捕虜達もトグリも、米兵の士気低下につながらないように放送用語等に配慮してこの番組の制作を行った。実際、この番組は米兵の士気を低下させるどころか、米国の音楽の放送もこれあり、好評を博したとさえ言える。
1945年:同盟通信時代の同僚の、日本人の血も入っているポルトガル国籍の男性と結婚し、ダキノ姓となるも、トグリは米国籍を維持した。終戦に伴って番組は終了した。その直後、米国の2人の記者が、米軍兵士の間で人気のあった「東京ローズ」を探したが、250米ドルをもらえるというので、トグリは自分が「東京ローズ」であると言って彼らのインタビューに応じた。しかし、約束に反して謝金は支払われなかった。このインタビュー記事を見た占領軍(米陸軍)と米司法省(FBI)は彼女を逮捕し、長期にわたって拘束して取り調べたが、容疑なしとして釈放した。その後、彼女は再び米国のパスポートを申請した。
1946年:「東京ローズ」についての映画がハリウッドで制作され、米国で上映された。この「東京ローズ」が厚顔無恥にも米国に帰ろうとしているとして、米国の有力コラムニストや米国の在郷軍人団体がトグリ非難を始め、米国世論を煽った。そこで、米司法省が彼女の再捜査を開始した。
1948年:上記の2人の米国人記者の内の1人が、番組の上記監修者2人を捜し出し、FBI(と米陸軍)に通報した。捜査官達はこの記者ともども2人を脅迫して、上記NHK番組の中で1944年、実際には日本の大敗に終わったレイテ海戦直後に、「あなた方はすべての船を失って、まさに太平洋の孤児になったのよ。どうやって故郷に帰るのかしらね」と語ったのはトグリであると偽証を行うことに同意させた。こうしてトグリは米国に護送され、サンフランシスコ到着と同時に逮捕され、上記を含む8つの嫌疑で国家反逆罪(Treason)で起訴された。
1949年:1年間の拘置所生活の後、トグリの裁判が始まったが、彼女にかけられた8つの嫌疑中7つは晴れたものの、米国まで連れて行かれて、2ヶ月間にわたって検察当局から想定問答をたたき込まれた上で行われた上記2人の偽証の結果、最後の1つの嫌疑はクロであるという心証を得た陪審員達は有罪評決を行い、彼女は10年の禁固刑と1万米ドルの罰金を科され、米国籍を剥奪された。トグリは、米国史上7人目、女性としては最初の国家反逆罪有罪者ということになる。この間、米国に渡ってきたトグリの夫のダキノに対し、米国政府は、二度と米国に来ないように誓約させた。
1956年:トグリは模範囚として、6年2ヶ月で出所した。出所後、日本への追放を拒み、親族の住んでいたシカゴに住み始めた。
1969年:米CBSがトグリの名誉回復を訴えるTV番組を放映した。
1976年:以前からトグリに関心を持っていたシカゴ・トリビューン記者(後に大学教授)が1974年からの東京特派員時代に偶然のきっかけで偽証のことをつきとめ、偽証を行った2人もそれを認めた。これを受け、1976年に彼はトグリの名誉回復を訴える記事を何本もシカゴ・トリビューン紙に書いた。
1977年:上記記事を踏まえて、再びトグリの名誉回復を訴えるTV番組が放映され、カリフォルニア州議会は全員一致で名誉回復を求める決議案を採択し、日系米国人連盟や上院議員に当選したばかりのS.I.ハヤカワも名誉回復を求めた。この結果、フォード米大統領は、離任直前にトグリの名誉回復を行い、彼女は米国籍を回復した。
1980年:1949年以来、一度もトグリに会うことがなかったダキノがトグリを離婚した。
2006年:1月、米国第二次世界大戦在郷軍人委員会が、トグリを表彰した。9月に死去。

3 コメント

 ハーバード大学教授で駐日米国大使を勤めたライシャワー(Edwin O. Reischauer。故人)は、ドウス昌代(注)の処女作である「東京ローズ」(サイマル出版会1977年)に序文を寄せて、「東京ローズは米国の正義の恥部となった」とし、トグリを反逆罪で断罪したのは、「依然として伝統的な人種的偏見の影響下にあり、大戦における反日本人的憎悪から全く解放されていなかった米国民衆である」と記しています。
 
 (注)私は、スタンフォード大学に留学した1974年に、日本人の友人に連れられて、日本研究家のピーター・ドウス(Peter Duus)教授のところに挨拶にうかがった。その時、キャンパス内の教授宅の門の前で同教授と立ち話をしたのだが、教授の傍らに無言で寄り添っていたのが昌代夫人だった。その後、夫人がこの本を出版したことを日本で知り、びっくりした記憶がある。

 他方、トグリは、どうして米国への忠誠心を維持し続け、米国籍を棄てようとしなかったのか聞かれた時、父親から「虎は縞模様を変えることはない」と教わったからだ、と答えています。
 トグリは、少し軽率なところはあったけれど、日本人の心意気を持った立派な米国人だったのです。
 そのトグリに悲劇的な一生を送らせることになったのは、黄色人種差別に凝り固まっていたがゆえに、米国が、日本を追い込むことによって先の大戦を引き起こすとともに、戦後トグリを偽りの容疑で断罪したためです。
 しかし、日系米国人のトグリに対して犯した罪については米国は謝罪し、かつまた、戦時中の日系米国人収容という罪についても米国は謝罪したけれど、先の大戦で無数の日本人を殺戮し日本の国土を荒廃させ、あまつさえ東アジアの秩序を崩壊させた罪については、米国はいまだに一言の謝罪もしていません。
 トグリの死去は、先の大戦に係る米国の大罪を追及する絶好のきっかけになりうるというのに、死去について独自報道すらしようとしない日本のメディアを見ていると、米国はまだ当分の間、日本に対して謝罪せずに逃げ続けることができそうですね。