太田述正コラム#12245(2021.9.4)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その17)>(2021.11.27公開)

 「1591年・・・閏1月・・・、ポルトガル領インド副王の親書を持参したインド管区巡察使ヴァリニャーノが京都聚楽第において秀吉に引見された。
 親書は・・・バテレン追放令の情報<が、まだ>・・・伝わっていな<かった>・・・1587年にインドのゴアで作成された<ものだ>。・・・
 秀吉からインド副王宛の返書の草案を入手したヴァリニャーノは驚愕した。・・・
 「バテレンたちが再びやってきて布教を始めればこれを族滅する。ほぞをかむなかれ」とあった。・・・
 これは・・・派遣元のインド副王を含めて滅亡させるという意味が込められているようにみえる。・・・
 ヴァリニャーノ<は、>・・・この草案のままではインド副王に届けることはできないと伝えさせた。・・・
 <その結果、>かなり表現は和らげられたという・・・。
 そうやって修正された秀吉信書のポイント・・・<は、>・・・布教は禁ずるが貿易はしよう、<というものだった。>・・・
 <この>秀吉信書は1592年に届けられたが、作成されたのは前年の9月のことである。

⇒訳文が添えられたのか、添えられたとして、誰が訳したのか、知りたいところです。(以下の諸親書についても同様。)(太田)

 じつは、その同じ年の11月1日、秀吉はスペイン支配下にあるマニラのフィリピン総督に・・・書簡を出していた。・・・
 ・・・要約<すれば、>・・・すみやかに使者を派遣して服従せよ。もし遅れれば軍隊を派遣する。後悔しないようにせよ! なんとも強烈な通告であった。・・・
 このあと秀吉は1592年・・・7月・・・に、追い打ち<の>・・・書簡を・・・出して<いる。>・・・
 <そして、>1593年・・・11月・・・に<は>、さらに激しい書簡をフィリピン総督宛に送っている・・・。・・・
 すでに秀吉家臣の武将たちがマニラ出兵の許可を求めている、明国征服も間もなくだ、早く予に服従せよと、なんとも居丈高である。
 前便よりもさらに強烈であるのは、「カステリヤの王」(スペイン国王)<(注26)>に対して、「予が言を軽視すべからず」と恫喝していることであった。・・・

 (注26)「<故イサベル(カスティーリャ女王)の寡夫で、アラゴン王で、かつカスティーリャの摂政であったところの、>フェルナンド5世が死去すると、・・・ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナ<・・カスティーリャ女王・・の子、すなわち、フェルナンド5世の>・・・孫のカルロス1世がアラゴン、カスティーリャ両王に即位する。これにより、ハプスブルク朝スペインが成立する。ただしこの時点では、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして、政治的に独自性を保持し続けた。カスティーリャ王国がスペイン王国に糾合され正真正銘消滅するのは、スペインが没落し、スペイン継承戦争を経てブルボン朝スペインが成立した後、フェリペ5世の時代に、遅まきながら国内の中央集権化が実施されたときであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A3%E7%8E%8B%E5%9B%BD

⇒豊臣秀吉政権がいかに的確に世界情勢を把握していたかが分かるのが、フェリペ2世を、同2世にとっての核心的領域であったところの、カスティーリャ王、と呼んだことです。(太田)

 1593年・・・11月、フィリピンへの使者派遣と相前後して、秀吉は高山国<(注27)>(台湾)に書簡を送り、日本への服属を求めた。・・・

 (注27)「高山国(こうざんこく、たかさんこく)は安土桃山時代の日本で用いられた台湾の別名。日本の文献に見える台湾を指すことが確実な呼称では最古のものとされる。
 1593年・・・、豊臣秀吉は長崎商人の原田喜右衛門を呂宋国(フィリピンのルソン島)の国王に、喜右衛門の部下であった原田孫七郎を「高山国」の国王にそれぞれ朝貢を求める書状を託して派遣した。・・・
 「高山国」の名称は台湾が標高3952mの(日本統治時代は「新高山」と呼ばれていた)玉山を最高峰として全島の3分の2が山地で形成されていることに由来すると言われている<。>・・・
 秀吉が「高山国王」宛の書状を作成した16世紀頃の台湾には全島を統一した国家が存在せず、南方のオーストロネシア語族に分類される台湾原住民の諸民族が集落を形成していた他は倭寇の根城が点在する状態であったと考えられている。17世紀には鄭成功がオランダ東インド会社を追放して全島統一を果たし、鄭氏政権が20年余り続いたが1683年に清の総攻撃を受けて鄭氏が滅亡した後は漢民族の入植が進められるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%9B%BD
 「原田 孫七郎(・・・生没年不詳)は、・・・「ガスパル」の洗礼名を持ちガスパル原田とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%AD%AB%E4%B8%83%E9%83%8E

⇒唐入りにも、また、フィリピン/台湾「攻略」にも、秀吉がキリシタンを活用したことは興味深いですね。(太田)

 ただ、台湾にはまだ国家が成立していなかったので、手渡すべき対象を特定できずに戻ってきた。」(99~104、108)

(続く)