太田述正コラム#12247(2021.9.5)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その18)>(2021.11.28公開)

 「島津氏も、秀吉に屈服する前、すなわち1570年代後半から80年代前半にかけて、北部九州に軍事的拡大を進めるとともに、南の琉球へも外交圧力を強めていた。
 当時、琉球は独立した王国だったのだが、そのようなことはお構いなしの外交攻勢であった。
 島津氏も秀吉も、超えてはならない国境認識というものが希薄だったのではないだろうか。
 その点ではヨーロッパ勢力の膨張主義と同様の、当時の権力がもつ要素を日本の政治権力も抱えもっていたといってよいだろう。
 もちろん明国も周辺への膨張をはかっていたから、勢力拡張というのは、洋の東西を問わず、力を蓄えた権力がもつ指向性だったのかもしれない。
 だからこそ、秀吉の「唐・天竺・南蛮」の征服構想が生み出されてくることになる。
 しかし本書で読み解きたい問題は、アメーバのようにじわじわと隣接地をめざして膨張していくのではなく、朝鮮や琉球をまだ征服もしていないのに、なぜその向こうの「唐・天竺・南蛮」までをも支配するという、巨大な征服構想が生まれたのかということにある。・・・
 秀吉が征服したいと考えた国と地域は、ポルトガルとスペインが支配を実現し、あるいはこれから支配しようとしていた地域だということになる。

⇒平川が、一体、秀吉の征服構想が「ヨーロッパ勢力の膨張主義と同様の・・・要素を・・・もつ」能動的なものなのか、それとも、「ヨーロッパ勢力の膨張主義」に対抗するための受動的なものなのか、どっちだと考えているのか、必ずしも判然としませんし、島津氏の軍事外交攻勢については、もっぱら「ヨーロッパ勢力の膨張主義と同様の・・・要素を・・・もつ」ものと考えているようであるところ、どうして、それを秀吉の征服構想と基本的に同じものとは考えていないのか、説明してくれていません。
 私は、島津氏の軍事外交攻勢は、近衛家の信長流日蓮主義に基づくものであったのに対し、秀吉の征服構想は秀吉流日蓮主義に基づくものであった、という微妙な違いこそあれど、どちらも、日蓮主義に基づく、という点で、同じであって、従ってどちらも、「ヨーロッパ勢力の膨張主義」とは似て非なるものである、と、見ている次第です。(太田)

 秀吉<は、>・・・1597年・・・にフィリピン総督に出した書簡<で、>・・・スペインが布教を足がかりに外国を征服していることは知っている、フィリピンでもこの方法によって君主を追放し、みずからが君主になっているではないか、同様の方法で日本を占領しようとしているに違いない、怒りを抑えることができない、と・・・言っている<。>・・・
 これに続けて秀吉は、日本と交誼を結びたいのであれば布教をせず、たんに「商賈往還」のためにのみ来航せよ、さすれば安全を保障する、と書いた。・・・
 <こ>の書簡は、この前年の1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の積み荷を没収されたことに抗議したフィリピン総督に対する返書である。・・・
 積み荷没収の契機となったのは、伏見にいたイエズス会士のポルトガル人達が秀吉に、スペイン人の悪い情報を吹き込んだからだという。・・・

⇒累次申し上げた理由から、この話は歪曲されている、と言わざるをえません。(太田)

 これとは別に、同号の航海士が「布教は侵略の手段だ」と語ったという話も、1602年に宣教師のセルケイラがマニラのイエズス会に宛てた書簡に書かれている。

⇒こちらの話の方は信憑性があります。(太田)

 またその後の宣教師たちにも、厳しい取り調べをうけた航海士が怒って、「スペイン人を不当に遇するならば、直ちに強力な軍隊をもってその国を奪う」と不適切な発言をしたからだと伝えられている・・・。

⇒この話もまた、信憑性があります。(太田)

 秀吉は<は、>・・・懲罰としてサン・フェリペ号の積み荷を没収するとともに、乗船していた司祭や、大坂と京都にいたフランシスコ会士らの捕縛を命じた。
 彼らは長崎に送られて処刑された。
 これが、いわゆる長崎二六聖人<(注28)>の殉教とされる事件である。・・・」(112~113、115~118)

 (注28)「京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。三成は捕縛名簿からユスト高山右近の名を除外することはできたが、パウロ三木を含む他の信者の除外は果たせなかった。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。ちなみに、二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達であった。・・・
 また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛された。・・・
 26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。・・・
 1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA
パウロ三木(1560年代~1597年)は、「三好氏に従う戦国武将であったが、・・・1568年・・・に上洛を果たした織田信長に随身し、功をあげて取り立てられた。
 同年、半太夫はキリスト教にも惹かれて洗礼を受けてハンディノを称し、自分の子供にも洗礼を受けさせ、洗礼名「パウロ」とされたのがこの人物である。
 ・・・1580年・・・、12歳の時、オルガンティノ師について、安土城下に造られた日本最初のセミナリヨ(小神学校)に第一期生として入学。2年後、本能寺の変後に城下が焼かれたため、有馬(高槻市)の学寮に移り、イエズス会員の手で教育を受け、幅広く諸学を治めた。
 成績優秀だったパウロは、父が九州平定の戦いにおいて薩摩で戦死したと知って教会に身を捧げる覚悟をし、22歳の時にイエズス会に入会を許された。雄弁でならして多くの聴衆を集める優れた宣教師として活躍。教化させて入信させた者も多く、書を持って盛んに仏教徒の醜行を攻撃した。
 ・・・1596年・・・10月、サン=フェリペ号事件が起こり、豊臣秀吉の命によって宣教師およびキリシタン信徒の名簿が作られ、監視されるようになった。12月11日、秀吉は奉行石田三成に命じてフランシスコ会のキリシタンを捕縛して誅殺するように命じた。パウロらは大阪ゼスイト派の宣教師宅で捕らえられた。三成はイエズス会派の者を除外するように主張したが、許されなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E4%B8%89%E6%9C%A8
 「フランシスコ会<は、>・・・16世紀には会則派のなかから、イタリアのレフォルマーティ派、フランスのレコレクト派、スペインのアルカンタラ派など内部改革の運動が生じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E4%BC%9A

⇒カトリック教会が列聖したり、また、長崎に日本二十六聖人記念館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8
を建てたりするのは勝手ですが、公的な公園に、或いは地方公共団体が、碑のようなものを建てていたり行事を行ったりしていないことを祈るばかりです。(太田)

(続く)