太田述正コラム#12303(2021.10.3)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺)(その3)>(2021.12.26公開)

3 池田家の日蓮主義(補論)

 光政流日蓮主義が、本当に「天皇家を巻き込」んだか、(実はそうであるはずだと予想して断定したのですが、)念のために検証しようとしたら、郷土史家と思しき人物による、それ以外の話にもわたる、面白い論考に遭遇したので、その一部をご紹介し、私のコメントを付しておきます。↓

 「・・・光政と・・・熊沢蕃山<(注3)>・・・の二人の知恵の結晶である岡山藩の防衛構想の推理に移る。

 (注3)1619~1691年。「加藤家浪人野尻一利の子として生れたが,8歳で水戸に行き母方の外祖父熊沢守久の養子となる。 16歳で岡山藩主池田光政の近習となり,20歳で致仕,近江に移住。 23歳のとき,中江藤樹に入門を請う。 27歳のとき再び池田家に仕え,やがて番頭となって藩政に参加するが,同僚のねたみを避けて禄を辞す。浪人生活中京都で学を講じたが,江戸幕府に朱子学への対立者であると疑われ,追放された。のち明石藩主松平信之に預けられ,大和郡山,下総古河と転々とする。古河で書いた政治への意見書『大学或問』 (1686) が浪人の身で政治を論じる不埒を犯したとして禁錮の処罰を受け,古河城内で病気のためその生涯を閉じた。学問の特徴は,政治,経済に関する具体的な考察に傾いている点にあり,「時処位」の3要素を勘案して実際に応じた方策を立てることの必要性を説いた。この「時処位論」はのちに古学派に影響を与えるが,彼の思想の継承者はな<い。>」
https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500

 その根本は、わが国体を末永く守らなければならないという尊王意識のもと、平素から朝廷との関係を築いておくということである。・・・
 次に防衛の対象―いわゆる仮想敵については、蕃山は当時明を滅ぼした北狄清による第二の元寇の恐れを唱えており、光政もこれを受容していたものと思われるが、その切迫感には差があったようだ。

⇒1619年の時点で蕃山の父が浪人だったとすると、加藤清正の子の忠広が熊本藩主改易となったのは1632年でしたし、加藤光泰系の加藤家も加藤嘉明系の加藤家も幕末まで大名として続く[・・後者はお家騒動で、一旦、40万石から1万石へと格下げになるけれど、それは1643年のこと・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E9%A8%92%E5%8B%95 ]
ことから、自発的浪人だった可能性が大であるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B0%8F
加藤清正も、加藤光泰も、加藤嘉明も、朝鮮出兵従事経験があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E
 想像するに、蕃山は、父を通じ、朝鮮出兵が失敗したことを、日本側が軍事的に敗北した、と、誤解して受け止めていたのではないでしょうか。
 それに対して、光政は、明が軍事的には弱かったことを知っていて、かつて元寇を日本は跳ね返したところ、明にとってかわったばかりの清(女真)だって、仮に日本まで指向してきたとて、跳ね返せる、と見切っていたのではないでしょうか。(太田)

 国内では、光政は「西国将軍」輝政に課せられていた「西国外様大名の東上阻止」という役割をこの備前の地において継承することを幕府から与えられた最大の任務と認識していたはずである。それともう一つ光政と蕃山はこの当時としては特異な考えを持っていた。それは徳川家の幕政担当者が謙徳を失って道理に外れた邪心を持ち、一方光政側に国体護持という正義がある場合、もし徳川に攻められることがあれば正義のため断固としてこれに対抗すべきであると考えていた。徳川から攻められることに対する光政の憂慮<は>相当深刻であった・・・。
 以上のような北狄清国軍、西国大名軍あるいは徳川幕府軍という大軍の侵攻から藩領を守るために光政と蕃山が考えていた策は次の四点に要約されるものと考えられる。
一. 人的戦力を最大限召集すること。そのための方策が・・・「士農一体」である。
二. 地形を利用してそれを戦力とすること。楠正成は赤坂村・千早村の険阻によって一千余騎で以って十万余騎の大軍を退けている。
三. 時間と資金をかけて防衛のための諸準備を周到にする。
四. 侵攻する大軍に対して持久戦を継続しつつ、同志の増援を得て反撃に転じ勝利を得る。
 そこで、このような持久作戦=籠城作戦を遂行する上で最適の場として光政と蕃山が選んだのは、宇喜多秀家以来の岡山城ではなく、片上湾を含む備前東部地区であった。・・・

⇒徳川幕府に対する潜在的敵意といい、士農一体といい、幕末~維新期の薩長等に与えた影響は大きかったのではないでしょうか。(太田)

 ここで谷口澄夫<(注4)>氏の「池田光政」中の光政の尊王意識に関する論述を紹介する。

 (注4)1913~2001年。歴史学者、教育者。広島文理科大卒、岡山大教育学部助教授、教授、学長、兵庫教育大初代学長、倉敷芸術科学大学長、就実女子大学長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E6%BE%84%E5%A4%AB

 「光政の尊王思想については、資料的な確証は乏しく、またその政治的立場から表面にははっきりと現れていないが、内実はかなり確乎とした尊王意識を持っていたものと思われる。光政が池田氏の出自に関して楠胤説をうたい、また楠氏の軍法が広大な徳を特性としている点を嘆美していることなど、光政が楠正成の特性と事蹟に血のつながりを意識し、正成にあやかろうとしたことは十分に認められ、ひいてはこれが尊王意識の基底になっているものと推量できる。
 また一六四九年、光政は第二女輝子を一条右大臣教輔に嫁がせ、参勤・帰国の途次しばしば一条家に立ち寄っている。(また<、光政の子の>綱政も養女を一条右大臣家に嫁がせている)これらも尊王とからませて考えられる。」
 この光政・綱政二代にわたる大名家と公家との縁組は、武家諸法度、公家諸法度にもとるものであるが、それを可能にしたのが千姫(天樹院)<(注5)>の存在であったといえよう。

 (注5)1597~1666年。「豊臣秀頼・本多忠刻<(ただとき)>の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。・・・<忠刻との間の>長女・勝姫<は、>池田光政正室、池田綱政生母」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%A7%AB

 なおこの縁組の結果として一六七三年京都の大火で禁裏及び仙洞御所が罹災した際、幕府から岡山藩に禁裏造営の国役を課せられ、六万五千両余という膨大な出費を強いられている。・・・」(杉嘉夫「明君・池田光政の防衛構想「備前東部籠城戦略–士農一体」」より)
http://www.bodaidsk.com/19mci-00/04kouenroku/mitumasa.pdf

⇒案の定と言うべきか、まさに、改秀吉流日蓮主義たる、天皇家を巻き込む、光政流日蓮主義、ここにあり、といったところですね。(太田)

(完)