太田述正コラム#12305(2021.10.4)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その12)>(2021.12.27公開)

 「・・・1691<年、>幕府は、表面は他宗を装いながら不受不施の立場をとる宗派を厳しく取り締まるよう指示し、受不施派<(悲田宗)>を不受不施派と同一視した(『公儀御法度』<(注27)>)。

 (注27)「江戸幕府の法令は、その施行範囲によって、大名領を含む全国を対象としたものと、幕府領のみを対象としたものに大別される。このうち、前者、即ち、天下一統の御法度は、幕府側からすれば、諸大名を統率する全国支配者として幕府の意志を大名領に示すものであり、大名側からすれば、自身の領国支配圏に対する幕府からの干渉を意味するものである。・・・
 天下一統の御法度に対する大名側の対応については、切支丹禁制のように、国是にかかわるものは、幕府の厳しい命令や処罰があるため遵守した。しかし、民政に関わるものは、例えば、田畑永代売買禁令のように、大名側の利害や領内の慣行と抵触する場合があり、しかも、幕府側がその実施を強く要求しなかったこともあって、しばしば実施しなかった例も確認される。そして、幕令を受け入れてそれを実行する場合も、鳴物停止令のように、幕府関係の停止令と大名独自の停止令という大名領での重層構造が確認される。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239751/1/shirin_086_3_437.pdf 「江戸幕府は将軍・天皇などの支配層およびその近親者が死去した際に、鳴物などを一定期間禁じる御触いわゆる「鳴物停止令」を出していた。たとえば、・・・1632<年>正月24日の第二代将軍秀忠の死に際しては「天下万ノ鳴物悉ク打チ止マリ」と形容される事態に至ったようである。
 黒田日出男は、これを評して中世の「天下触穢<(しょくえ)>」の延長線上にあるものとみなし、全国区的規模で民衆に静謐を強いるがゆえに中世をはるかにしのぐスケールで為政者の存在を民衆に知らしめ、結果として、将軍だけでなく天皇の存在も全国的に知らしめる契機となり、将軍消滅後は「歌舞・音曲停止令」として受け継がれ明治天皇制国家の樹立にも寄与したとする。」
https://core.ac.uk/download/pdf/228683068.pdf
 黒田日出男(1943年~)。早大一文(国史)卒、同大院博士課程満期退学、同大博士(文学)、東大史料編纂所教務職員、助手、助教授、教授、所長「、同所附属画像史料解析センター長、立正大教授、群馬県立歴史博物館館長、等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%97%A5%E5%87%BA%E7%94%B7

⇒脱線ですが、「注27」に登場する黒田の説について、その中で登場する天下触穢
file:///D:/Users/Nobumasa%20Ohta/Downloads/AA115395930090005.pdf
にまでは立ち入らないことにするものの、徳川幕府が、天下触穢の伝統を踏まえつつ、それを制度化したことによって、「天皇の存在も全国的に知らしめる契機」にしてしまった、という指摘は興味深いですね。
 御三家が徳川幕府を克服・否定する日蓮主義を抱懐していたという話をしたばかりですが、幕府本体、相当頭が鈍く、脇も甘かった感が否めません。(太田)

 それゆえ、切支丹、悲田宗、不受不施派の三宗を同一視する観念が成立するのは、悲田宗が禁圧の対象となる<1691>年以降であることが確認されよう。
 <さて、>秀吉が企てた無謀な朝鮮出兵によって、日本は国際的に孤立状態に追い込まれ<てい>た。
 宗氏にとっては、多年にわたって築き上げてきた朝鮮との信頼関係が断ち切られ、種々の権益までも手放す結果となっ<てい>た。・・・
 <そこで、>宗氏の重臣である柳川調信(やながわしげのぶ)・・・は、家康は過去の過ちを悔いて信義を取り戻したいと願っていると、ひたすら秀吉との違いを強調して国交回復をはかろうとした<ところ>、・・・ようやくにして・・・1606<年>に朝鮮側から返答を得ることができたが、それには二つの条件が付けられていた。
 一、朝鮮国王の陵墓を荒らした犯人(犯陵賊)を捕縛して引き渡すこと
 二、まず家康が、謝罪の意思を示す内容の国書を朝鮮国王に送ること・・・
 宗氏は、島民である二人の囚人を犯陵賊に仕立てて縳送<(てんそう)>した。
 これが真犯人ではないことは朝鮮側も察していたが、一応は面目が保たれたので受け容れ、この二人を処刑した。
 国書については、・・・家康の国書を偽造する挙に出たのである。・・・
 日本年号ではなく明の年号である「万暦三十四年」と記し、みずからを「日本国王源家康」と名乗り、「日本国王之印」を押捺している・・・など、家康の発給文書としては絶対にありえない異常な様式である。
 当然ながら朝鮮側も疑問を抱いたが、・・・これも了承し、翌・・・1607<年>には460名の使節団を日本へ派遣した。・・・
 家康は、将軍秀忠・・・との国書交換という方式に強引に変更させた。
 宗氏は、使節が江戸城で将軍秀忠に謁見する直前に国書をすり替え、偽造の発覚を防ぐという離れ業をやってのけている。

⇒この史実を知っていると、文禄の役の時の1593年明の使節の秀吉謁見の際に、発覚防止方策を(、明側と事実上ぐるだったというのに、)小西行長らが取らず、案の定、秀吉を激怒させてしまったということになっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
・・次回東京オフ会「講演」原稿で詳述する・・ところ、その異常さが分かろうというものです。(太田)

 使節団は7ヶ月に及んだ任務を終え、駿府で大御所家康に挨拶して帰国の途についた。
 <こうして、>・・・1609<年>に己酉約条<(注28)>(きゆうやくじょう)が締結され、朝鮮との国交が回復した。・・・」(114、120~123)

 (注28)「1609年・・・朝鮮が対馬の大名宗義智に与えた通交貿易上の諸規定。同年が己酉の年に当たるのでこの名があり,己酉条約,慶長条約ともいう。全13ヵ条で,宗氏への米・大豆の賜給,日本からの使節の接待法,宗氏の歳遣船数などを細かく規定。通交方法・条文の構成などは中世以来のものを踏襲しているが,内容は文禄・慶長の役の影響で,通交者を日本国王(徳川将軍),対馬島主(宗氏),対馬島受職人(対馬の朝鮮官職を授けられた者)に限り,歳遣船数を20隻に減らす(戦前は30隻)など,対馬にとって不利となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%B1%E9%85%89%E7%B4%84%E6%9D%A1-244229

(続く)