太田述正コラム#12357(2021.10.30)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その8)>(2022.1.22公開)

 「・・・信長・・・と家臣団は常に流通の結節点に進出し(勝幡(しょばた)→那古野(なごや)→清須→小牧山→岐阜→安土)、城郭と城下町を構え、民衆に対して平和維持のために様々な租税を要求した。
 獲得した銭貨は、おもに長槍隊や鉄炮隊の維持・拡大に投入し、精鋭の軍隊が天下統一戦に投入されたのだ。・・・
 1573<年>に浅井・朝倉両氏を滅亡させることで、信長は北国街道に加えて・・・日本海の有力港湾都市を手に入れた。
 畿内・東海・北国に巨大な領国を獲得した結果、信長は東西と南北の流通路を押さえたことになる。
 京都にほど近く日本海と太平洋がもっとも近いこの本領を根城にして、信長の天下統一戦は本格化したのだ。
 ・・・<1582>年6月の本能寺の変の後、信長の軍拡路線を踏襲したのは秀吉だった。・・・
 秀吉は、早い段階から対外戦争を計画しており、・・・政権中枢にあった石田三成ら奉行たちは、戦争経済の維持・拡大をねらって、さらなる侵略戦争を海外に求めた。
 しかし豊臣一門大名や徳川家康らの大老のなかには、それに消極的な者も少なくなかった。
 水面下での派閥抗争は、・・・1595<年>の三成らによるクーデター、秀次事件(文禄4年政変)によって強硬派が勝利し、対外戦争は継続されることになった。・・・

⇒「対外戦争を計画しており、・・・政権中枢にあった石田三成ら奉行たち」中の「・・・」には、実に7行に及ぶ文章が挟まっているのですが、藤田が、「・・・」の前で、「対外戦争」のイニシアティヴをとったのを一旦は秀吉としながら、後で、いや石田三成らである、と、言い換えているように読めて戸惑ってしまいます。
 また、藤田が「天下統一戦」も「侵略戦争」の範疇に入れているように読めることについても同様の思いがします。
 なお、私は、三成は「対外戦争」「消極」派であったと見ているので、秀次事件や対外戦争の豊臣政権内での構図の藤田による描き方には、不同意であることはご承知の通りです。(太田)

 徳川の天下が揺るぎないものになるなか、・・・対外出兵の可能性も消えたため、深刻な経済恐慌が発生した。
 長期に及ぶ戦争経済によるバブル状況がはじけたことで、大量の兵士が解雇され牢人問題が社会不安を増大させたばかりか、諸大名の財政規模も急速な縮小を余儀なくされた<ため>である。・・・
 築城ブームとは、正確には地方城下町建設ブームであって、食い詰めた群衆の三都への爆発的流入を抑止するために–現代風に表現すれば「地方創生」のために–<諸大名が>選択した、ギリギリの政策だったのだ。・・・

⇒あれ、「戦国時代以来うち続く戦争によって、地域社会は相当に荒廃していた」(前出)んじゃなかったの? と言いたくなります。
 「戦争経済によるバブル状況」にもかかわらず、「地域社会は相当に荒廃していた」、ということが理論上はありうるのかもしれませんが、いずれにせよ、もう少し突っ込んだ説明が求められたところです。(太田)

 <この>近世城下町・・・は、当初から周辺の村落社会との一体化による循環経済を不可欠とする存在だった・・・。
 大名が永続性を前提とした都市計画に取り組んだのは、この時がはじめてだった・・・。・・・
 戦国・織豊時代の城下町は、移動を前提とした兵営都市といってよい存在だった。
 軍隊の宿営地が、その本質だったのである。
 たとえるならば、城郭が大名であり、城下町がそれに従い奉仕する家臣団と直属商工業者と僧侶(信仰面のみならず外交僧など様々な役割を果たした)であり、大名領の拡大・縮小に応じて、それらは移動を余儀なくされたのである。
 構造的にも、天守をはじめとする城郭建造物や武家屋敷は分解可能で移築が容易にできていた。
 それが象徴的に現れるのが、戦争だった。
 大名は陣所を本営としたのだが、中心建物である陣屋の内部には書院が設けられ、周囲には堀と逆茂木がめぐらされ、あたかも小規模城館といってよいものだった。
 その周辺に重臣以下が小屋掛けして野営するのである。
 もちろん商人・職人や僧侶も同行した。
 これが、戦国時代以来の様々な合戦でみられる通常の光景だった。」(8~13、15~16)

⇒藤田は、長期にわたる大攻城戦であったところの、大坂の陣、の時の家康の茶臼山本陣のことが念頭にあるのかもしれません。
 「大規模な掘り割」に囲まれた、この「ご寝所は絶頂にして南北十二畳の外、三間に一間の庇ありて五尺の椽を附る。西の麓に四畳半の茶亭、南の麓に二間四方の納戸、東向に二間四方の浴室を建べし、東の麓に二十畳の一室、是近臣の席とすべし、北の麓に庖厨を設け、惣台盤所は乾堀の外たるべし」
https://www.toyotomi-ishigaki.com/hideyoshi/1506.html
というわけです。
 しかし、そのちょっと前の、大規模な短期決戦であったところの、関ヶ原の戦い、の時は、家康の本陣・・戦いの途中で桃配(ももくばり)山から陣場野に移動している・・は簡易なものであったようであり、
https://shirobito.jp/article/487
例外は、廃城であったものを別人が修築して布陣していたのを追い出して小早川秀秋が布陣した松尾山城くらいだったようであった
https://www.hb.pei.jp/shiro/mino/matsuoyama-jyo/ 及び上掲
ことからも、藤田の筆致は滑っている感が否めません。

(続く)