太田述正コラム#12363(2021.11.2)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その11)>(2022.1.25公開)

 「初期藩政時代の藩主の思想として広く知られているのが、・・・1625<年>8月に藤堂高虎が子息高次(1601~76)に与えた遺訓「太祖遺訓」に示された、大名は将軍から「大事の御国を預」かっているとする認識である。
 譜代大名なら違和感はないが、高虎のように7人もの主君を渡り歩いた末に、自らの実力で成り上がった大身の外様大名が、このような思想をもったことにこそ意味がある。

⇒国司については、「鎌倉時代の守護の設置により,・・・国司<が>有名無実と<る>」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%8F%B8-55734
までの「10世紀以降・・・の段階では受領(守)と言った方が良いでしょうが、・・・かつては一緒に任命された四等官の下位国司、介、掾、目、の代わりに、自分の腹心を連れて任国へ赴くようになります。その腹心とは自分の一族郎党も含みますが、それだけではなくて、在庁官人を有る程度は押さえられるだけの実務能力を持った下級官僚を契約社員・嘱託のような形態でそれなりの人数を連れて行きます。・・・1116年に三善為康が編纂した『朝野群載 巻22』の「諸国雑事上・国務条々事」は、中央から任国へ下る受領(国守)の心得うべき事柄を四二ヶ条にわたって書き上げたものですが、そこでは・・・「国風」「土風」「国の古風土俗」「国例」「国躰」あるいは「故実」「旧跡」に従うことを説いています。」
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_33_2.html
というわけであり、このような受領についての知識を安土桃山時代から江戸時代初期にかけての、高虎等の大名達は、自分達が「当初、国司の公事および荘園の所務とは関係しなかったが、次第にこれを干犯し、室町時代には強大な守護大名となった<ところの>・・・守護」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%88%E8%AD%B7-77664
の後継者たる戦国大名である、という認識を持っていたはずであり、自分達が、かつての受領的な存在へと「先祖返りした」的な認識も抱いていたはずだ、というのが私の見方です。(太田)

 後に二代藩主となった高次<(注16)>もこの思想を継承し、「殿様の御国と存じ奉るまじく候、殿様は当分の御国主」であると・・・1667<年に>・・・明快に断言している。・・・

 (注16)1602~1676年。「1632年・・・の江戸城二の丸、・・・1639年・・・の江戸城本丸消失後の復興、・・・1652年・・・の日光の大猷院霊廟(徳川家光の霊廟)などの数多くの石垣普請を行った。ところが津藩はこれらの石垣普請の負担により財政が極度に悪化し、高次は年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めた。しかしなおも江戸幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E6%AC%A1

⇒「注16」から伺える、高次の大名稼業も、「国司の守(受領)の仕事、そして京の朝廷の一番の関心事は国(武蔵国とか地方の意味で)がちゃんと官物(租税)を京に送ることです。」
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_33_2.html 前掲
という、かつての受領稼業を思い起こさせますね。(太田)

 このような預治思想と呼ばれてきた思想は、江戸初期の好学の明君として知られる岡山藩主池田光政<(コラム#12285等)>(1609~82)にも通じるものであるが、時期的には、はるかに早かった。
 藤堂氏といい池田氏といい、外様大名にまで領知権が器量に応じて将軍から預かるものとする認識が浸透していたことは重要である。
 ここには、たとえば今川氏が制定した戦国家法「今川かな目録」<(注17)(コラム#11878、11944)>にみられるような、自らの武力によって領地を切り取り治めるという戦国大名的な常識はない。

 (注17)今川仮名目録(「かな」は校正ミス?)は、「1526年・・・氏親(うじちか)制定の33条と、その子義元(よしもと)が1553年・・・に制定した追加21条をあわせていう。前者は、地頭(領主)と本・新名主(みょうしゅ)(百姓)の関係、境界相論、喧嘩(けんか)・盗賊の取締、所領売買制限、借米銭の利子率、宗論・私婚の禁止などを規定。後者は、家臣の被官関係、不入権、相続および裁判手続などを規定しているが、条文中とくにこの制法が室町幕府権力を背景とせず、今川氏自身の力量による制定・発効を強調し明示している点が注目される。なお本法典は・・・東国地方における戦国大名の発布した法令としては最古のもの<であって、>・・・武田氏の甲州法度(はっと)にも影響を与えた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E4%BB%AE%E5%90%8D%E7%9B%AE%E9%8C%B2-32209
 「今川氏は既に幕府の命令を待たずに遠江国へと進出した時点で守護大名から戦国大名へと立場を変えつつあったが、『今川仮名目録』の成立をもって名実ともに戦国大名としての立場を明らかにしたとされる。更に『追加21条』においては、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭した。内容は、戦国大名の権力誇示というよりも、土地などに関する訴訟の裁定基準といった色合いが強いのが特徴である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E4%BB%AE%E5%90%8D%E7%9B%AE%E9%8C%B2

 統治者としての実力と資質が伴ってはじめて、将軍から「藩」を預かることができるという趣旨である。」(29~30)

⇒お言葉ながら、「預治思想<など>と呼<んで>きた」のは藤田一人ではないでしょうか(コラム#12279)。(太田)

(続く)