太田述正コラム#12670(2022.4.4)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その18)>(2022.6.27公開)

 「天皇は石清水八幡宮への行幸を望んでいなかった。
 病は気からというが、行幸を前にして天皇は体調を崩してしまう。・・・
 だが、・・・関白鷹司輔煕<が天皇に理解を示した一方で、>・・・議奏三条実美は納得しなかった。・・・
 「天皇を連れ出し、鳳輦<(注24)>に押し込める」とまで主張した・・・。

 (注24)「鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では神社の祭りなどに使われる、鳳凰の飾りがある神輿を意味する。
 神輿は、日本の神社の社殿を小型化したかたちであるのに対し、鳳輦は台の上に4本の柱と屋根があるかたちになっており、「人が乗って移動する車」という、もともとの用途に適した形態をとっている。
 「輦」は、二人の人夫が並んで引く車を表し、意味は「人の引く車」「荷車」「天子の乗る車」など。つまり、輦の字だけなら、人が引く車全般、あるいは、天子が乗る車全般を指すことになる。「鳳輦」という熟語は、車の中でも特に「鳳凰の飾りのある天子の車」を意味するほか、「仙人の乗る車」を意味するときもある。
 天皇の行幸など公的な外出では鳳輦が用いられ、私的な外出では屋根に葱花を載せた葱華輦(そうかれん)用いられたとされているが、元々は天皇の即位儀礼の際に限って鳳輦が用いられていたとみられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E8%BC%A6

 これを知った天皇は延期を諦め、予定どおり石清水八幡宮へ行幸した。

⇒この挿話は朝廷のガバナンス低下を意味するものではなく、近衛忠煕一派が引き続き孝明天皇を自分達が描いたシナリオ通りに動かし続けていた、というだけのことです。(太田)

 攘夷実行期限の・・・1863<年>5月10日を迎えると、翌日に長州藩は幕府の許可を得ずに、下関海峡を通航中のアメリカ商船を砲撃した。
 それとは対照的に9日に老中格小笠原長行(ながみち)は、横浜でイギリス側に前年の生麦事件に関する賠償金を支払っている。
 また開港場の閉鎖を通告したとはいえ、江戸の閣僚たちは現実j的に攘夷実行が難しいことを悟っていた。

⇒そんなことは、「江戸の閣僚たち」に限らず、まともな武士や、まともな武士から情報を得られる非武士、にとっては常識だったはずです!(太田)

 この小笠原の独断行為が京都に伝わると、将軍の東帰をめぐって議論が沸騰する。

⇒幕府側は、日米修好通商条約交渉の折は、大老の井伊直弼の意向を無視して同条約に調印し、今回は、在京の将軍の徳川家茂の意向や将軍後見役の一橋慶喜のタテマエ上の意向を無視して生麦事件に関する賠償金を支払った(注25)、というわけであり、幕府のガバナンスはとっくの昔に失われていた、と言うべきでしょう。

 (注25)「1863年・・・の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。
 折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払を巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、支払期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールが激怒、海軍省の訓令下にあるキューパー提督に委任すると軍事行動を示唆し、横浜では緊張が高まった。
 支払拒否の経緯は資料により異なり、『幕末外交談』によると攘夷の勅命を帯びて京都より戻る途上の将軍後見職・徳川慶喜が命じたとされるが、慶喜の手書によると「攘夷は命じたが支払拒否は命じていない」としている。
 再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入・・ 5月4日及び9日の江戸城中における評議には、異例にも水戸藩家老の武田耕雲斎と大場一真斎が参加していた。・・・もあって逆に支払拒否が決定されるが、5月8日、小笠原は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。一方、英国と老中の板挟みになっている神奈川奉行たちから攘夷令に反対をされた慶喜は説得をせずに小笠原と入れ違いに8日に江戸に戻っており、小笠原との間に支払を巡る黙契が存在していたという説がある。小笠原は、支払を済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 なお、「注25」から見てとれるのは、慶喜がタテマエ賠償金支払い拒否・ホンネ支払い是認、慶喜≒水戸藩の水戸藩が慶喜の計らいで賠償金に係る評議に参加し賠償金支払い拒否、の姿勢をとって幕閣を翻弄した挙句、慶喜のホンネの意向を受けて賠償金を支払った小笠原を、同じ慶喜が掌を返して罷免する、というやり方で、幕府のガバナンスの喪失状態を国内外に周知させることで、倒幕機運を一層高めることに成功した、ということです。(太田)

 議奏三条実美や徳大寺実則たちは、将軍が東帰して攘夷を実行することを求めた。
 彼らの意見を前にした一橋慶喜は、攘夷を行わなければ将軍職の意味がないと、江戸閣僚たちの姿勢を批判する。
 それに対して前尾張藩主徳川慶勝は、将軍が東帰すれば閣僚たちと一緒になり、幕府と朝廷との間で対立することになると反論する。
 彼の意見には中川宮が同調している。・・・
 天皇<は>内心では滞京を願っていたが、将軍の東帰を許してしまう。」(133、136~137)

(続く)