太田述正コラム#12672(2022.4.5)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その19)>(2022.6.28公開)

 「<1863年>5月29日に天皇は、中川宮に再び苦しい胸の内を語っている。
 「朝議決定に関して自分の意向は通らず、三条や徳大寺らが決めたことに「ふんふん」と聞くしかない。
 三条らは、姉小路公知の暗殺を薩摩藩の仕業であると論じ、御所九門内から薩摩藩の者を排除している。
 三条と徳大寺を朝廷内から追い出さない限り、事態はよくならない」と断言する・・・。
 そこで天皇は、中川宮に国事御用掛近衛忠煕とともに、久光の上京を促すよう命じた。

⇒孝明天皇が、国事御用掛でもあった関白の鷹司輔煕ではなく、国事御用掛でしかない、中川宮と近衛忠煕に、国事を命じるなど、滅茶苦茶です。
 国事御用掛なんて、30人もいて、全て、諮問に与かるスタッフでしかない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%8B%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B
のですからね。(太田)
 
 <そして、>3月に久光が上京して提言した内容を実行させようとした。
 だが、久光は鹿児島から動くわけにはいかなかった。
 前年の生麦事件の報復措置として、イギリスの艦隊が迫っているとの情報を得ていたからである。
 実際、7月には薩英戦争となっている。・・・
 <そのような折、>6月14日に正親町公菫を監察使として長州藩に派遣することが決まり、16日に出発している。・・・

 (注26)おおぎまちきんただ(1839~1879年)。「権大納言・中山忠能の二男として生まれ、権大納言・正親町実徳の養子となる。・・・兄弟<に、>中山忠愛、中山慶子、・・・中山忠光<がいる。>・・・
 <1863>年6月14日<に>・・・長門国監察使に任じられ長州藩に攘夷実行嘉賞の勅諚を届け、<そのまま長州に留まっていたところへ、8月26/27日に>三田尻<に「亡命」してきていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E >
三条実美と会見した<が、>同年八月十八日の政変により、同年10月7日・・・三条との会見を咎められ差控となり、<1867>年1月25日・・・に赦免された。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%85%AC%E8%91%A3
 正親町実徳(さねあつ。1814~1896年)。「<1864>年7月19日・・・の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止、他人面会・他行の禁止を命ぜられ、<1867>年1月・・・に赦免された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%AE%9F%E5%BE%B3

⇒「許可なく京都を離れた<公家>・・・は官位を停止され<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E 前掲
のですから、正親町公菫はもちろん、関白の鷹司輔煕の監察使に任じる辞令をもらって京都を出発したはずです。
 ということは、近衛忠煕を頭目とする五摂関家が公菫を、長州藩で燃え上がった攘夷の火を消さず、一層燃え上がらせるために、長州藩に派遣した、ということに、私見ではなるわけです。(太田)
 <また、>7月17日には右近衛権中将東園基敬<(注27)>と侍従四条隆謌<(注28)>が監察使に命じられた。

 (注27)ひがしそのもとゆき(1820~1883年)。「1855年・・・の孝明天皇の行幸の際には・・・左近衛権少将と<して、>・・・舎人1人、随身2人、小舎人童1人、雑色2人を率いて供奉している。・・・1858年・・・には岩倉具視らと共に安政勤王八十八廷臣として行動し、朝廷に列参して日米修好通商条約への勅許に反対した。孝明天皇の支持も得て、幕府による条約勅許の画策を阻止した。しかしこの事が原因で同年に井伊直弼が発動した安政の大獄の際に連座した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9C%92%E5%9F%BA%E6%95%AC
 (注28)しじょうたかうた(1828~1898年)。「安政勤王八十八廷臣、七卿(七卿落ち)に数えられる。・・・。1867年・・・12月の王政復古で討幕派が朝廷の実権を握ると京に戻って官位を復され、戊辰戦争では中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを務め<る。>・・・
 妻:銈姫 – 黒田長溥養女(実父・奥平昌高)。不仲のため子供はなかった。
 後妻:春子・・・先妻死去後、長年囲っていた京都祇園の舞妓出身の春子を土方久元の養女として後妻に迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%AC%8C

 東園は紀伊和歌山藩、四条は明石藩に出向<いた。>・・・」(137~139)

⇒監察使が紀州藩と明石藩に送られたのは、京都に近い大阪湾への入り口を両藩が扼していたからでしょうが、紀州藩はなまくらながら秀吉流日蓮主義藩であったこと、明石藩は当時の藩主の松平慶憲の正室が島津重豪の子の中津藩主奥平昌高の女子であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%85%B6%E6%86%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%98%8C%E9%AB%98
こと、も念頭にあったのかもしれないところ、いずれにせよ、長州藩も、日本海から瀬戸内海/大阪湾への航路を扼す位置にあったことを勘案すると、それは、攘夷に関し、長州藩だけと朝廷が癒着しているとの印象を少しでも払拭するためだったのではないでしょうか。
 いずれにせよ、耳タコかもしれませんが、これら3監察使の派遣は、全て、私見では、5摂関家が決めたことなのです。(太田)

(続く)