太田述正コラム#12674(2022.4.6)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その20)>(2022.6.29公開)

 「さらに<1863年>7月23日には武家伝奏野宮定功と飛鳥井雅典は、京都守護職松平容保に対して天皇の命令を下した。

⇒幕府も、依然として使節は二人制であったところ、朝廷もまた、依然として二人制ですね。
 武士も公家も、仕事量に比して人が多過ぎたことから、それなりの合理性はあったわけですが・・。(太田)

 その内容は監察使を派遣したので、今後も攘夷を実行しない藩がある場合には、官位を剥奪するというものであった。
 そして、この旨を幕府から諸藩に伝達するよう命じた。
 奇兵隊の高杉晋作らは下関砲台を見て回る正親町に、攘夷を実行しなかった小倉藩の征討を求めた。
 この要望が朝廷に伝えられると、8月4日には錦小路頼徳の勅使派遣と、小倉藩主の退穏および領地削減などが内定した(・・・八月十八日の政変<(後出)>により実効はされなかった)。
 尊攘派の公家たちが、いかに即今攘夷を求めていたかがわかる。・・・

⇒八月十八日の政変に向けての動きを気取られないように、五摂関家が、(恐らくは「尊攘派の公家たち」からの突き上げなど殆どなかったにもかかわらず、)そういう動きをしてみせただけでしょうね。(太田)

 <更に、攘夷のための>親征行幸<が計画されたが、それ>は、天皇から委任されている征夷大将軍の面目をつぶすことになる。
 そのような武家の立場から、京都守護職松平容保は親征行幸に反対であった。
 よって、<彼は、>三条実美らを朝廷から排除する薩摩藩の計画に協力する姿勢を示した。
 薩摩藩士高崎正風(まさかぜ)(左太郎(さたろう))<(コラム#12516)>は、中川宮尊融親王に天皇の同意を得てほしいと依頼した。
 この後で国事御用掛近衛忠煕にも同じことを頼むが、彼は動揺して即答できなかった。
 8月15日に高崎は、薩摩藩と会津藩が作成した政変計画案を中川宮に知らせた。
 ここで中川宮は高崎に計画への協力を明らかにするが、近衛の決断は鈍ったままである。
 16日に中川宮は・・・天皇に・・・計画のあらましだけを告げた。
 17日には容保から<政変>計画を聞いた右大臣二条斉敬が賛同し、内大臣徳大寺公純<(注29)>も承諾している。

 (注29)とくだいじきんいと(1821~1883年)。「<当時の関白の>鷹司輔煕の庶長子(密子)。・・・徳大寺実堅の養嗣子となり家督を継ぐ。・・・
 1858年、通商条約勅許問題が起こると、条約勅許に反対したため、井伊直弼による安政の大獄で「悪謀企策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。しかし1ヶ月間で罪を許されている。
 その後は公武合体運動を推進して二条斉敬らと共に活躍したが、和宮の徳川家茂降嫁に関しては反対の立場を取ったため、幕府から圧力を受けて失脚している。その後、復帰して執政となった。こうした政治的変動の中で公純も命を狙われており、1863年には家臣・滋賀右馬允が公武合体に反対する浪士達に殺害されている。・・・
 西園寺公望<は、次男。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B4%94
 徳大寺実堅は、鷹司輔平の子で鷹司政煕の弟にして、公純の叔父にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%A0%85

 こうした流れを受けて、ようやく近衛も政変への協力を決意した。

⇒本当の流れは、近衛父子/薩摩藩を牛耳る島津斉彬信奉者達→(二条家を含む)五摂関家→中川宮/孝明天皇、であって、松平容保に対しては事後通告だった、というのが私の見方です。
 ちなみに、慶喜は、この時、江戸にいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C (太田)

 当夜、中川宮・近衛・二条は参内し、天皇と最後の確認を行った。
 日付が18日に変わった午前1時過ぎ、天皇からの命に応じて中川宮、二条、徳大寺、近衛父子、松平容保と京都所司代稲葉正邦が参内した。
 御所の公卿門以下の9門は閉ざされ、薩摩藩・会津藩・淀藩の藩兵が警護する。
 特別に許可された者以外は参内停止となった。
 国事参政と国事寄人は廃止され、大和親征行幸の詔も取り消された。・・・
 さらに命に応じて諸藩兵が御所9門を外側から警備した。
 そのうち堺町門は長州藩の担当であったため、騒ぎを聞きつけた長州藩兵との間で騒動となっている。
 長州藩兵は異常事態を三条実美に知らせた。
 まったく事情を知らない三条は驚き、彼らを率いて関白鷹司輔煕邸に向かう。・・・
 <その>鷹司・・・は政変について知らされ<てい>なかった。
8月18日の御前11時頃、ようやく鷹司が参内し、政変結果が告げられる。・・・」(139、143~145)

⇒徳大寺公純は当時の関白の鷹司輔煕の実子であり、かつ「注29」の後段から分かるように当時の徳大寺家は事実上、鷹司家の分家であり、はたまた、私見では当時は五摂関家は一体だったのですから、鷹司輔煕も徳大寺公純も最初から政変計画を知っていたと思われるところ、それでは政変にならないので、輔煕は自分が朝議に呼ばれず、勝手に政変が決せられた、という形にし、公純の方は事前に容保から政変計画を聞かされた、という形にした、と想像しているのです。
 それにしても、京都守護と京都所司代が、それぞれ藩主を務める藩の藩兵を使って公務を務める態勢はアナクロそのものですね。
 こちらも、というか、こちらの方が更に、年季が入っているわけですが、近衛父子が事実上薩摩藩兵を使ったことがむしろモダンに見えてしまいます。(太田)

(続く)