太田述正コラム#12708(2022.4.23)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その37)>(2022.7.16公開)

 「・・・翌24日の早朝に薩摩藩の小松帯刀を介して久光へ至急参内するよう伝えられるが、病気を理由に参内はしなかった。
 参内したのは、彼ではなく中御門経之・大原重徳・中山忠能・平松時厚<(注67)>・五条為栄<(注68)>といった朝議外にいる公家たちであった。
 
 (注67)ときあつ(1845~1911年)。「1864年<の>・・・禁門の変に際して長州藩に加担し参朝停止などの処分を受け、<1867>年1月・・・に赦された。
 戊辰戦争では<1868>年1月2日・・・征討将軍仁和寺宮嘉彰親王に随行を命ぜられ大坂に出陣し軍事書記役・軍監を務めた。同年2月20日・・・参与に就任。以後、軍防事務局親兵掛、弁事、三河国裁判所総督、三河国兼遠江国鎮撫使を歴任。同年6月29日・・・政府軍慰労のため東下。明治元年10月14日(1868年11月27日)権弁事に就任。以後、岩代国巡察使、民部官副知事心得を務めた。明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄50石を永世下賜された。同年7月8日宮内権大丞に就任。
 明治3年6月19日(1870年7月17日)第二次新潟県知事に就任。明治4年11月20日(1871年12月31日)第三次新潟県が成立し初代県令に就任。新政府の政策を推進したが、大河津分水掘削工事の負担に苦しむ農民等による悌輔騒動が発生し、明治5年5月24日(1872年6月29日)県令を免本官となった。
 1876年12月淑子内親王祗候に就任。以後、宮内省御用掛、太政官内務部勤務、内務省御用掛、同省庶務局勤務、東京府麹町区長、宮内省編纂局勤務、同省宸翰御用掛、司法省御用掛、検事、東京控訴裁判所詰、大阪始審裁判所詰、大阪控訴院詰、長崎控訴院詰などを歴任。1884年7月8日、子爵を叙爵。
 1890年6月12日、元老院議官に就任、同年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。同年7月16日、貴族院議員補欠に当選し貴族院子爵議員となり、死去するまで在任した。・・・
 長男の平松時陽(1873-)は爵位を継ぎ、陸軍騎兵大尉。・・・娘の尊覺(1877-)は近衞篤麿の養妹とな・・・った。実弟に小松行正がおり、その長女・祐厚(青山善光寺住職)と次女・誠厚(感応寺住職)を養女にしている。15歳下の弟子と駆け落ちして世間を騒がせた尼僧の一条尊昭は孫(息子・時冬の子で一条実孝の養女)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E6%99%82%E5%8E%9A
 「平松家は、「日記之家」として知られる桓武平氏高棟王流の公家で、西洞院時慶の次男時庸を祖とする堂上家(名家・内々・新家)。・・・近衛家の家礼。・・・
 2代平松時量(正二位権中納言)は近衛基煕と親交が深く、その娘近衛煕子が甲府徳川家の徳川綱豊(のち6代将軍徳川家宣)と縁組した際には、形式的に煕子を養女に迎えている。その際平松家の遠祖平信範の日記『兵範記』の一部を基煕より譲り受けている。・・・
 朝廷では近衛家と島津家とのパイプ役として活躍していたこともあり、島津家や薩摩藩家老らとの関係が深かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E5%AE%B6
 (注68)1842~1897年。「1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わった。その後、大学頭、侍従、文章博士を歴任。・・・1864年・・・7月19日・・・の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止となった。<1867>年1月・・・に赦され、同年11月20日・・・参与助役に就任。鳥羽・伏見の戦いが起こり<1868>年1月4日・・・錦旗奉行となる。その後、中国四国追討使副督に任じられ同年1月28日・・・まで従軍。同年2月20日・・・参与・刑法事務局権輔に就任。以後、軍務官兵学校奉行助役、三等陸軍将を歴任。
 明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄50石を永世下賜された。同年7月22日(9月8日)陸軍少将に任じられた。以後、次侍従、侍従、東京府十等出仕、山形県第一大区区長、同最上郡長、同東村山郡長、元老院准奏任官御用掛などを歴任。
 1884年7月8日、子爵を叙爵。元老院書記官を務め、1888年6月7日、元老院議官となり、その1890年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。同年7月10日、貴族院子爵議員に当選し、死去するまで在任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E7%82%BA%E6%A0%84
 「五条家<は、>・・・菅原為長の子高長(従二位・式部大輔)(1210年 – 1285年)を祖とする。・・・
 家業は紀伝道。・・・代々朝廷主催の相撲節会においては相撲司としてその運営を取り仕切ったことや、野見宿禰の子孫ということもあり、紀伝道のみならず相撲の司家として鎌倉時代以来君臨してきた。・・・しかし、相撲の司家としての五条家の名声は、熊本藩主・細川家の家臣である13代吉田司家当主吉田追風が積極的な相撲興行を展開し、江戸相撲において横綱免許を発給するようになってから失墜することとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E5%AE%B6

 これは正親町三条らが、今回の天皇の命令は発表前に公家たちに見せたほうがよいと判断し、・・・意見を述べようとする彼らの参内を認めたことによる。・・・
 二条は、発表前の天皇の命令を見せるだけであり、意見を聞くつもりはないと説明する。
 中御門や大原たちは承服せず、天皇の命令を見合わせることを主張した。
 将軍が退出まで自分たちは御所から一歩も動かないと強硬な姿勢を取る。
 慶喜は二条に今日中に降命があることを望んだ。
 彼は決定を見るまで数昼夜におよんでも退出しないことを決意していた。」(222)

⇒(岩倉具視の義兄である)中御門経之は具視の攘夷論の部分だけの「代理」、大原重徳は幼少時からのご縁の故孝明天皇の「代理」、中山忠能は娘の慶子が明治天皇の実母であることから同天皇の「代理」(以上のコラム#省略)、平松時厚は近衛家の家礼の家で文字通りの近衛親子の代理(「注67」後段)、という面子であるところ、五条為栄だけは、どうしてその中に紛れ込んだのか、調べがつきませんでした。
 なお、久光の不参内は、薩摩藩内を牛耳る小松帯刀以下の島津斉彬コンセンサス信奉者達が(そろそろその存在を持て余し気味になっていたところの)久光の耳に入れなかったからでしょうね。
 とまれ、慶喜の渾身の悪役としての演技が続いたわけです。

(続く)