太田述正コラム#12712(2022.4.25)
<小泉達生『明治を創った男–西園寺公望が生きた時代』を読む(その1)>(2022.7.18公開)

1 始めに

 今度は、戦前の日本を規定したのは、どちらも秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者である、と私が見ているところの、山縣有朋(1838~1922年)と西園寺公望(1849~1940年)・・どちらも戊辰戦争経験者だ・・についての、比較的新しい、かつコンパクトな本を読み、適宜私のコメントを加えていくことにします。
 後者に関しては、3冊買ったのですが、まずは表記から始めます。
 買ってから、それが小説仕立てで当然典拠もついていないことにガックリしたのですが・・。

2 明治を創った男–西園寺公望が生きた時代

 「・・・「いったい、この国を、どこ、にもっていくのや……」・・・
 夜になって様態が急変した。・・・
 <臨終は>21時54分<だっ>た。・・・

⇒ここで思わず吹き出してしまいました。
 この1940年(昭和15年)11月24日の時点で、私見では、西園寺は、日本が本当はどこを目指して動いているかを最もよく知っていた5人のうちの1人だったのですからね。
 ちなみに、残りの4人は、牧野伸顕、杉山元、貞明皇后、それに閑院宮載仁親王です。
 えっ閑院宮、と思われた方もおられるでしょうが、参謀総長だったあの閑院宮です。
 いや、太田コラムで焦点が当てられたことがないのでは、ですか?
 そのあたりの事情は、次の東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)

 1849年・・・10月23日<、>公卿の徳大寺公純<(注1)>(きんいと)家に・・・男子が生まれ、「公望」と命名された。

 (注1)1821~1883年。「鷹司輔煕の庶長子(密子)。祖父鷹司政通の子として秘匿された上で、徳大寺実堅の養嗣子となり家督を継ぐ。・・・
 1858年、通商条約勅許問題が起こると、条約勅許に反対したため、井伊直弼による安政の大獄で「悪謀企策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。しかし1ヶ月間で罪を許されている。
 その後は公武合体運動を推進して二条斉敬らと共に活躍したが、和宮の徳川家茂降嫁に関しては反対の立場を取ったため、幕府から圧力を受けて失脚している。その後、復帰して執政となった。こうした政治的変動の中で公純も命を狙われており、1863年には家臣・滋賀右馬允が公武合体に反対する浪士達に殺害されている。
 明治以後も攘夷派公家としての矜持を保ち、京都に留まった。たとえ身内の者であっても洋装の客に対しては決して会おうとはしなかった。ただし、それはあくまでも自分自身の信念の問題であると考えていたらしく、息子・西園寺公望のフランス留学実現に陰で奔走したのは公純であったと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B4%94

 公卿とは、朝廷に仕える三位以上の貴族を呼ぶが、徳大寺家は公卿の九清華(せいが)家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門<(おおいのみかど)>・今出川・広幡・醍醐)の一家であり、五摂家・・・に次ぐ名門である。
 2歳の時に西園寺家<の師季(注2)>の養嗣子となり、「西園寺公望」の誕生となった。・・・」(9、15)

 (注2)西園寺師季(1826~1851年)。「妻<は、>定君(徳大寺実堅<(上出)>の娘)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%B8%AB%E5%AD%A3
 「公望<は、>・・・師季の養子となった・・・年の7月に師季が死亡したため、西園寺家の家督を相続した。このため実質的には実父の公純の強い影響下で成長することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B ☆

⇒公望の実父で公望がその下で育ったと言ってもよい徳大寺公純は、自分が本来は鷹司家の嫡男だという意識を抱いていたと想像されますが、五摂関家の頭目の近衛忠煕(1808~1898年)は、近衛家は倒幕・維新の過程で働き過ぎたので、維新後は一歩退き、自分の孫は、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの世論工作版といったところのアジア主義の普及活動を行わせるので、鷹司家が今度は近衛家の役割を引き受けてもらいたいと鷹司輔煕(すけまさ。1807~1878年)に「指示」し、輔煕の嫡男の輔煕(1849~)が子を残さないまま1867年に急死し、後嗣がいなくなったことから九条尚忠の子・煕通を養嗣子に迎え入れることとなった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E6%94%BF
こともあり、徳大寺公純の嫡男意識をくすぐらせ、その実子の西園寺公望に秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの新政府における推進中枢の役割を(公家の近衛忠煕と武家の島津斉彬のコンビに倣って)山縣有朋(1838~1922年)とコンビを組ませる形で担わせるべく公望を育て上げることとさせた、と、私は見るに至っています。
 そう見ることで、1849年10月23日生まれで当時まだ19歳であった公望が、「<1868>年12月9日、おそらく<(近衛忠煕の走り使いの(太田))>岩倉<具視>の推挙によって、三職の1つ、参与の一人とな<った後、>・・・戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北陸道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する」運びとなり(☆)、「戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)では黒田・・・清隆・・・とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、・・・<北越戦争では、>なすすべもなく西園寺公望総督(病気で辞職した高倉の後任)ともども城外へ逃げ出す羽目になった・・・山縣有朋」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
といった具合に、山縣有朋と西園寺が、無理やり行動を共にさせられた感があるようなことがどうして起きたのか、が、初めてもっともらしく説明できる、と。(太田)

(続く)