太田述正コラム#12718(2022.4.28)
<小泉達生『明治を創った男–西園寺公望が生きた時代』を読む(その4)>(2022.7.21公開)

 「・・・<公望の>一周忌に当たる1941年、昭和16年の11月、・・・近衛は・・・世紀の大舞台「パリ講和会議」で、首席全権大使の西園寺がわずか28歳の青年をわざわざ随行させてくれたのは、世界を見聞させて後継者として大きく育ってほしい、との親心であることを痛いほど感じていた。・・・

⇒次回東京オフ会「講演」原稿で詳述しますが、元老としての後継者ではなく、元老の最大の仕事である次期首相の推薦役に関する後継者、として西園寺公望が予定していたのは、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者たる同志の牧野伸顕だったのであり、その牧野を、首席全権に指名された公望が次席全権に指名し、更に、公望が文麿を、また、牧野がその女婿の吉田茂、を、それぞれ指名して同会議に随伴した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
のは、公望はやがて秀吉流日蓮主義完遂戦争を準備させるための傀儡首相に据えるつもりだった文麿を牧野に紹介して了解を得、牧野はその戦争終了後の戦後処理をさせるための首相に据えるつもりだった吉田を公望に紹介して了解を得るためだった、と、見ているのです。(太田)

 「申し訳ありません。私の力不足です!」・・・
 「近衛さん、力不足と言うが、命を懸けるほど必死で取り組んできたのかね?」・・・
 「信念は持ち続けていましたが、なかなか思うようにはいかず、妥協ばかりすることになりまして……」・・・
 「信念は貫いてこそ信念だ! 近衛さんの妥協で生まれた政策が、明らかに戦争に向かう手助けをしてしまっている!・・・
 この戦争をすれば日本は滅びる。今の国力でアメリカや世界を相手に戦争などして勝てるはずがなかろう。国際協調、これしか日本の生きる道はないのだ!・・・
 これで、日本国民は畳の上で死ねないことになってしまった・・・
 「国の始まりと言われる神武天皇より2600年。先祖や先人たちが他国から一度も蹂躙されずに、この日本の国土や人民を守ってきてくれたのに……、この戦争を始めれば日本民族が絶えてしまうかもしれん!・・・
 日本の伝統を継ぐ公家の家に生まれながら、その伝統を守れなかったとは……」・・・

⇒この仮想問答が、およそありえないことはもうお分かりでしょう。
 文麿に信念などなく、だからこそ公望は、彼を傀儡として対英米戦準備にこき使ったのですからね。(太田)

 極東国際軍事裁判(東京裁判)におけるアメリカのキーナン首席検察官<いわく、>・・・「日本におけるデモクラシイの最初の指導者は、故西園寺公望公であったと信じている。
 日本人は東条のことは知らなくてもよいから、西園寺公のことはもっと研究してもらいたい」

⇒近代「デモクラシイ」は欧州文明由来の、徴兵制とコインの両面の制度であることから、日本においては、倒幕・維新を行った志士達の殆ど全員がその「最初の指導者」と言えるのであって、キーナンの言のそのくだりはナンセンスですが、キーナンが、東條<<<公望、と述べたくだりはその通りです。(太田)

 第12回国民体育大会が昭和32年10月、静岡の地で執り行われた。
 開会式に出席するため昭和天皇が宿泊先に選ばれたのは、興津の水口屋であった。
 西園寺が暮らしたその地に、緩(ゆる)りと2泊もされたのである。
 そのお心は如何ばかりであっただろうか。
 水口屋で詠じた昭和天皇の御製が遺されている。
 興津の宿にて西園寺公をおもふ
 「波風の ひびきにふとも 夢さめて 君の面影 しのぶ朝かな」・・・

⇒私は、終戦までには、昭和天皇は、貞明皇后から、公望や杉山元らとともにお前を騙してきたのだよ、ということを明かされていたと想像している・・このことも次の東京オフ会「講演」原稿で説明する予定・・ところ、この御製の「夢さめて」には、あなたにも私は見事に騙されていましたね、という含意もある、と受け止めています。(太田)

 西園寺公望公は、・・・「戦争は悪の中の悪」との信念をもっていたので、軍部から目をつけられて何度も命を狙われました。・・・」(134、136~138、140~142、155)

⇒「戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北陸道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する。会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたという。
 明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任した。西園寺は軍人を志し、フランス留学を望んでいた為この職は不本意であった。翌明治2年、東京に戻った西園寺は・・・前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(仇討譚で知られる剣客田宮坊太郎に由来)という名を用いるようになった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。」(☆)という公望が、一体、いつ、いかなる理由で「「戦争は悪の中の悪」との信念をも<つ>」に至ったというのでしょうか?(太田)

3 終わりに

 遅ればせながら、著者の小泉達生(1958年)の紹介をしておきます。
 清水市に生まれ、茨木大学人文学部卒、松下電工株式会社(現Panasonic)入社、その後小学校教員として38年勤務し、常葉大学教育学部の非常勤講師を17年間(2021年10月現在)務めるとともに、NPO法人の理事として興津坐漁荘(注5)の管理運営等に関わっている。(奥付より)

 (注5)「西園寺は、1916年(大正5年)から興津の旅館、水口屋の勝間別荘で避寒するようになり、興津の地が気に入っていた。そのためこの地に別邸を建てることとなり、1919年9月に竣工した。建設費用は西園寺の実弟住友友純<(前出)>の住友家が全額負担し、同年12月に西園寺に提供された。別荘は後に「坐漁荘」と名付けられたが、これは太公望呂尚が「茅に坐して漁した」という故事にちなむものである。西園寺は一年の四分の三をここで暮らし、夏には御殿場の別荘に避暑に訪れ、東京府東京市神田区駿河台の本邸に入るのは東京に政治的用事があるときだけだった。
 坐漁荘は300坪の敷地に京風数寄屋造り2階建ての一軒家と、執事室や警備の詰め所、倉庫が建っている。また五・一五事件の後は鉄筋コンクリート造りの書庫が建設されたが、これは万一の際の避難用ともされている。・・・
 1968年(昭和43年)に、博物館明治村への移築話が纏まり、1970年(昭和45年)に明治村での移設公開が始まった。・・・
 現在、静岡市清水区興津清見寺町115番地に存在するものは2004年(平成16年)に復元されたものであり、興津坐漁荘の名称で一般に公開されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%90%E6%BC%81%E8%8D%98

(完)