太田述正コラム#12728(2022.5.3)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その5)>(2022.7.26公開)

 「・・・就任後はじめて政変に際会した未経験の摂政に、どのように振舞えばよいのか、必要な助言をあたえるのは、本来ならば「常侍輔弼」を職責とする内大臣の仕事だが、内大臣松方は老齢で引籠もりがちだったため、・・・その役割は宮内大臣、枢密院議長さらには侍従長などによって適宜分担されざるをえなかった。・・・

⇒と、みんなが騙されるだろう、と、山縣や西園寺らは踏んだわけです。(太田)

 この時点での西園寺は、政友会内閣と山県系官僚内閣による政権の交互担当という「情意投合」<(注7)>路線(いうなれば「二分の一政党政治」路線)をなお支持して<いたが、>・・・山本と清浦を協議に加える許可を摂政にあおぐにあたって、松方・牧野が事前にもう一人の元老である西園寺に相談した形跡は認められない。・・・

 (注7)「1911年(明治44年)1月29日、当時の桂首相が政友会議員と会合した際に、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と述べた。この時、桂が述べた情意投合(じょういとうごう)という語は、官僚・軍部勢力と政友会が暗黙のうちに意思疎通を図って政権運営に協力していくという桂園時代の政治体制を意味する言葉として、当時広く用いられた。両者の関係は日露戦争中の1904年(明治37年)12月頃から提携が模索され、戦争終結後の1906年(明治39年)1月に桂は西園寺を後継首相として退陣したことから本格化し、1912年(大正元年)12月に二個師団増設問題で西園寺・政友会と桂・軍部が対立して第2次西園寺内閣が崩壊するまで続いた。・・・
 陸奥の遺志を継いで原を育てた西園寺は来るべき「大正デモクラシー」に道に開いたといえる。・・・
 <なお、>桂園時代(けいえんじだい)は、陸軍・山県閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会第2代総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1901年(明治34年)から1913年(大正2年)の10年あまりをいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%9C%92%E6%99%82%E4%BB%A3

⇒日英同盟の締結(1902年1月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
を目前にひかえ、いわゆる「条約改正」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3
の完全達成を期して、日本が政党政治に移行しつつある先進国であることを欧米列強に訴える狙いから、山縣有朋の指示の下、西園寺と桂が政党が絡んだ内閣交代劇を演じることとなり、桂園時代が始まった、というのが私の見方です。
 西園寺と一心同体同然だった牧野が、ことあらためて西園寺に相談しなかったとしても不思議ではありません。(太田)

 松方・牧野の主導で開かれた新例が、もしもそのまま定着していれば、山本・清浦が昭和天皇即位の際に元老に指名される公算は大であった。
 ところが、松方・牧野の期待に反して、この新方式は定着せず、・・・<この>政友会を与党とする貴族院内閣<である>・・・加藤友三郎<(注8)>内閣<成立の時の>・・・一回限りで終ったのである。」(21、23~25)

 (注8)1861~1923年。「広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として・・・生まれる。父・七郎兵衛は・・・下級藩士だが、学識があり・・・藩校の教授を務めた人物であった。
 幼年期に広島藩校学問所・修道館(現修道中学校・修道高等学校)で・・・学び、1884年(明治17年)10月、海軍兵学校7期卒業。1888年(明治21年)11月、海大甲号学生。
 日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、「定遠」「鎮遠」を相手として黄海海戦に大いに活躍した。
 日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。・・・
 その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、1915年(大正4年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内・原・高橋と3代の内閣にわたり海相に留任した。
 1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。・・・
 当時の海軍の代表的な人物であり「八八艦隊計画」の推進者でもあった彼<は>、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成した・・・。
 1922年(大正11年)6月12日、加藤友三郎内閣が発足した。しかし1923年(大正12年)8月24日、首相在任のまま大腸ガンの悪化で・・・私邸で臨終を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒日露戦争の勝利(1905年)と条約改正の完全達成(1911年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3 前掲
によって日本が名実ともに世界の列強入りを果たしたことを踏まえ、事実上の首相の指名権限を元老集団から選挙民へと形の上で移行させる・・憲政の常道を表見的に実現する・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
ことによって、日本が英米型の政体(デモクラシー)を実現した以上無茶なことはしなくなる、と、西園寺らが、山縣有朋(~1922年2月1日)の遺命を受けて、欧米列強を安堵させようとした、というのが私の見方です。
 そして、加藤友三郎内閣は、もともと非「憲政の常道」内閣の最後のものとする予定だった、と。
 ところが、加藤内閣が急に終焉を迎えてしまったため、山本権兵衛と清浦圭吾にそれぞれ短期間、ケアテーカー的な首相を務めさせた後、
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
1924年6月11日に初の憲政の常道内閣である加藤高明内閣を発足
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93 前掲
させる運びになった、と。
 もちろん、松方も牧野も、かかる成行に異存があろうはずがなく、従って、両者の「期待に反して」、などということはありえないのです。(太田)

(続く)