太田述正コラム#12740(2022.5.9)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その11)>(2022.8.1公開)

 「これにより元老は西園寺一人とし、その後は自然消滅にまかせるとの決定がほぼ確定したといってよい。
 山本<(注15)>を元老に、との牧野や薩摩系の望みもここでたたれたのであった。・・・」(73)

 (注15)山本権兵衛(1852~1933年)。「薩摩藩<の名門たる藩>士の息子として生まれ、戊辰戦争に従軍した後、昌平黌、開成所を経て海軍兵学寮で学び、1877年に海軍少尉に任官。1891年に海軍大臣官房主事に就任し、海軍参謀機関の独立を実現させた。1893年に海軍省主事に就任し、1895年には海軍少将として軍務局長に就任。日清戦争では実質上海軍機務を取り仕切って「権兵衛大臣」と呼ばれた。1898年に海軍中将に昇進し、海軍次官を経て、第2次山縣内閣に海軍大臣として入閣して以降、第4次伊藤内閣、第1次桂内閣でも海軍大臣を務め、日露戦争の難局を突破した。・・・
 明治天皇による初めての海軍軍服の着用、予算規模の拡大などによって、海軍を陸軍と対等の関係まで進めた。・・・このことは後々まで陸軍の反発をまねき、山縣有朋は山本の元老への話が出ても何も言及しなかった。・・・

⇒山本を見込んで山縣は海相にしたわけであり、元老は西園寺一人にした上で廃止しようと山縣が考えていたというだけのことだろう。(太田)

 <また、>開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。・・・開戦派の批判に耐え切れず勝てる見込みもないのに開戦に同意した後の大東亜戦争の海軍首脳<=嶋田繁太郎>と比較して、後に賞賛されることになった<。>・・・
 開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。・・・
 日露戦争後には伯爵位を与えられた。1913年の大正政変の後、立憲政友会と手を結んで組閣し、第16代内閣総理大臣に就任。軍部大臣現役武官制の廃止などの改革にあたったが、翌1914年にはシーメンス事件が発覚して引責辞任。1923年に再度組閣し、第22代内閣総理大臣に就任したが、同年中に<、今度は>虎の門事件で引責辞任した。・・・
 次の第2次大隈内閣で海軍大臣となった八代六郎は、山本と斎藤実を予備役に編入した。 井上良馨と東郷平八郎の両元帥は、この人事に反対するも、山本は人事は海軍大臣の専管事項であり、将来の人事行政に重鎮達が口を挟む悪例を残さないために、素直に大臣の命令に従い1914年(大正3年)5月11日に予備役となった。その後、第一次世界大戦やその後の海軍軍縮にも海軍の長老としての公的な発言は全くしていない。・・・
 伊藤正徳は・・・、「山本が予備役にならなければ間違いなく元帥になっていたろうし、そうなれば艦隊派と条約派の対立も雲行きが変わっていただろう。いかにも惜しかった」と述べている。・・・
 1922年(大正11年)の高橋内閣総辞職の際、元老の一人西園寺公望は病中であり、松方正義は、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)より枢密院議長の清浦奎吾とともに山本を協議に加える許可を得た。三者の協議により加藤友三郎に大命が降下することとなったが、これは松方と宮内大臣牧野伸顕をはじめとする薩摩閥が、山本を将来の元老とするための措置であったともされる。一方で西園寺は山本が宮中に接近することを警戒し、山本の枢密院議長就任に対して反対している。

⇒西園寺と牧野は一心同体、で終わりだ。(太田)

 関東大震災の被害もまだ明けぬ1923年(大正12年)9月2日、加藤友三郎首相の急死に伴い、約9年の時を経て同じく海軍出身の山本に再度の組閣が命じられた。推薦を行ったのは西園寺であり、「来るべき総選挙を公平に行はしめ、財政・行政整理を断行せしむる」ためであるとされた。
 山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどした。加藤友三郎内閣から引き継いだ大臣には、女婿である海軍大臣の財部彪もいた。しかし同年12月27日に起きた摂政宮が共産主義者の難波大助に狙撃された虎ノ門事件の政治的責任を自ら取り、辞表を提出した。摂政宮と元老も辞表を却下するなどして慰留したが、翌1924年(大正13年)1月7日に内閣は総辞職した。・・・

⇒西園寺もまた、(当然のことだが、亡き山縣同様、)山本を見込んでいたわけだ。(太田)

 <この>総理大臣の時、海軍に入隊する皇族が少なかったこともあり、伏見宮博恭王の待遇について「宮様に、ご迷惑がいかないようにせよ」と申し継ぎを出した。この申し継ぎは後々の海軍でも重要視され、伏見宮の海軍での影響力を高める結果となった。・・・

⇒嶋田は、「1941年(昭和16年)10月18日、東條内閣の海軍大臣を拝命。打診された際は辞退したが、伏見宮博恭王の勧めで受諾した。就任時は不戦派だったが、伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信(この時、海軍はアメリカが来春には米領フィリピンのルソン島に300機のB17爆撃機を増強することをつかんでおり、国防上、それよりも前に開戦しなければならないと考えていたとされる)、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E7%94%B0%E7%B9%81%E5%A4%AA%E9%83%8E
のであり、山本の伏見宮を尊重せよとの指示に従った、という見方もできよう。(太田)

 東京日日新聞1924年6月19日記事では両元老亡き後の元老として山本の名が挙げられるなど、経歴から見ても元老に適格であるという観測も行われていた。しかし内大臣平田東助は元老を西園寺の代で消滅させる意向を持っており、山本は不適格であると考えていた。西園寺もこれに同意しており、山本が元老となることはなかった。牧野はその後も山本を枢密院議長などの重職に就けようと活動したが、<西園寺>は一貫して反対し続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B#cite_ref-16
 妻の登喜子(1860~1933年)は、「新潟県蒲原郡菱潟村の農<民の子で、> 品川の妓楼<の>遊女<。>」(必読。↓)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%99%BB%E5%96%9C%E5%AD%90

⇒元老消滅を平田は西園寺から指示されていたのだし、牧野もまた、山本を宮中枢密院議長にすればその後元老にならないのがより不自然な印象を与える以上、真に「枢密院議長に就けようと活動した」はずがない。(太田)

(続く)