太田述正コラム#12748(2022.5.13)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その15)/鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その1)>(2022.8.5公開)

 「・・・「憲政の常道」が憲法的慣行として確固たるものとなっていれば、後継首相の奏薦は、まったく機械的な作業となるから、やめていく首相が指名しようが、元老・内大臣が指名しようが、結果は同じであり、両者にたいした際はない、あったとしても、その差は「紙一重」にすぎないといおえるかもしれない。・・・
 元老や内大臣は天皇が選んだ、天皇のもっとも信頼をよせる重臣である。
 君主が自分の信頼する臣下の助言に従うのは、ある意味で当然のことであ<る。>
 しかし、有権者の投票によってその地位が左右される政党政治家は、たとえそれが君主によって任命された総理大臣であっても、他方において君主の信任とは別の権威に由来する政党制に立脚してもいるわけだから、<彼が後任の首相を指名することは、>元老や内大臣<による指名>とは同列に扱えない<のだ>。」(90~92)

⇒最も重要なのは、そういう点ではなく、首相の奏薦「権」保持者が一人に絞られたことです。
 振り返れば、西園寺が、後の昭和天皇が摂政になった時(1921年11月25日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
には既に元老であって後の昭和天皇が「君主の信任」を与えた人物ではなかったところ、天皇に即位した1926年12月25日(上掲)には、もう一人の元老だった松方正義が既に1924年7月2日に亡くなっていて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9 前掲
一人元老体制になっていて、爾後の首相の奏薦は、元老つまりは自分、自分亡き後は1925年3月30日に牧野伸顕が就任していた内大臣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95 前掲
が行う(べき)と、昭和天皇に奏上したわけです。
 その牧野は、西園寺が、(これまた摂政就任より前に大正天皇の「信任」を得て1921年2月19日に就任していた)宮内大臣(上掲)から、内大臣へと(不「信任」するわけにはいかない状況下で)横滑りさせたものであり、上記奏上には、後継内大臣は辞めていく内大臣が指名するものとするとの含意があったと見てよいでしょう。
 しかも、このことは、私見では、西園寺は秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であったところ、かかる者が、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂に資すると判断した者だけを首相に指名することが担保されたことを意味するのであって、だからこそ最も重要なのです。(太田)

(完)

    –鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その1)–

1 始めに

 西園寺の三弾目の表記のシリーズをお送りします。
 鈴木荘一(そういち。1948年~)は、「1971年、東京大学経済学部卒業。東大卒業後は日本興業銀行へ入行<、>・・・2001年、同銀行を退職。・・・現代政治経済と歴史の融合的な研究を進めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8D%98%E4%B8%80
という人物であり、歴史学者とは言い難いところ、いずれにせよ、典拠が付された形の本ではないのは困ったものですが、最初に取り上げた小説仕立ての小泉本よりは期待して読んでいくことにしましょう。

2 『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む

 「幕末維新の動乱とは、徳川幕政の後の政治・外交・軍事の路線を、
一、大政奉還に始まり帝国議会開設で完成する議会主義により、英米協調外交による平和な時代を目指す、徳川慶喜が敷いた公武合体の文治路線。
二、鳥羽伏見戦から始まり西南戦争で完成する天皇制軍国主義を拡充し、天皇親政のもと、アジア諸国を従えて欧米列強に大攘夷戦争を挑む長州的な軍事路線。
のいずれを選ぶかという抗争だったのであり、この構想は太平洋戦争開戦まで続く。
 前者の立場に立ったのは板垣退助、後藤象二郎、大隈重信らであり、西園寺はこの系譜に属する。
 一方、後者の立場に立ったのが山県有朋らである。
 そして前者の系譜は、山県有朋が敷いた後者の勢力との国内対立に敗れ、わが国は太平洋戦争に踏み込むのだ。
 本書では、生涯をかけて前者の立場を貫徹し、ついに失脚して隠棲する西園寺の苦闘を描く。」(14~15)

⇒思想が歴史を動かす、という史観に立脚している点では私と同じですが、「徳川慶喜・・・の文治路線」など存在しなかったのですから、トンデモ歴史叙述になってしまっていることが想像されます。(太田) 

(続く)