太田述正コラム#12750(2022.5.14)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その2)>(2022.8.6公開)

 「・・・伊藤博文は明治15年<(1882年)>にヨーロッパ各国の憲法を調査するため渡欧した。
 このとき10年間にわたりフランスの思想・文化を学んだ西園寺公望は、伊藤巳代治(後に大日本帝国憲法草案作成に参画)、平田東助(のちに内大臣)らと共に伊藤に随行し、フランス通の立場からおもにフランスの憲法・行政の調査研究にあたった。・・・

⇒「牧野伸顕<は、>・・・1880年(明治13年)、東京大学を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
わけですが、この時、牧野と西園寺が出会ったことの方が重要ではないでしょうか。
 西園寺は、「明治27年(1894年)には病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣として、第2次伊藤内閣に初入閣を果たした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
ところ、「牧野は<1906年には、>第1次西園寺内閣で<初入閣し、>文部大臣を務め」ることになる、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95 前掲
という点だけをとっても・・。(太田)
 
 西園寺公望は明治33年の政友会旗揚げの際に創立委員として参画し、東洋自由新聞<(注1)>を通じて自由党内に培った人脈が旧自由党系勢力の囲い込みに役立ったことから、最高幹部の一人となった。

 (注1)「パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいる」と、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた。この新聞は自由党結党に向けて準備され、明治14年(1881年)3月18日に創刊された『東洋自由新聞』であった。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員を務めた。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している。新聞の論調はフランスの共和政治よりイギリス流の立憲君主制が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視や三条実美、兄の徳大寺実則らは社長を辞めるよう強要した。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している。しかし4月8日に宮内省に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「内勅」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
 松田正久(1845~1914年)は、「肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において、小城藩士・・・の次男として生まれた。・・・
 維新後は、昌平坂学問所に派遣されるが、間もなく同校が廃止されたために西周からフランス語を学んだ。西の推薦によって陸軍省入りし、1872年には兵学研究のためにフランス留学に赴いた。留学中に西園寺公望を識り、将来の日本には自由主義的な考えが必要と意気投合する。スイスのローザンヌで学んだ後、帰国後は陸軍省を辞して佐賀にて自由民権運動に参加する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B9%85

⇒「注1」からも分かるように、西園寺の盟友の松田は、兵学研究のために仏留し、議会制推進論者になったわけですが、西園寺も、あの軍事の天才の大村益次郎の推薦によってフランス法制勉強目的で仏留し、議会制推進論者になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
のであり、それはなぜかと言えば、欧州文明諸国の当時の国制は戦争遂行のためのものだったからです。
 ほんの一例を挙げれば、徴兵制と民衆への選挙権の付与・付与範囲の拡大は、表裏の関係にあった、と、これまで何度も申し上げてきたところです。
 恐らく、鈴木は、この基本が十分咀嚼できていないために、山縣有朋と西園寺らとを対峙させる「史観」をひねり出してしまったのでしょうね。
 三条や岩倉や徳大寺もどうやら咀嚼できていなかったようですが・・。

 そして西園寺は明治36年に、伊藤の後継者として政友会第二代総裁となった・・・。・・・
 西園寺公望は、元老伊藤博文が後事を託した「秘蔵っ子」だったのである。・・・」(19~20、25)

⇒「元老兼野党総裁という伊藤の立場の扱いづらさ、伊藤が党内をまとめ切れていないという現状を解消すべく、藩閥首脳、党幹部の総意という形で、伊藤は祭り上げの形で枢密院議長に転出。入れ替わりに西園寺公望枢相が政友会総裁に迎え入れられ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
というのが実態だったとすると、伊藤は西園寺に政友会を乗っ取られたということになりそうですが、私は恐らくそうだったのだろうと思っています。(太田)

(続く)