太田述正コラム#12752(2022.5.15)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その3)>(2022.8.7公開)

 「・・・桂太郎は明治3年にプロシアへ留学。
 明治7年<(1874年)>に帰国して陸軍大尉に任ぜられると、郷土の先輩である初代陸軍卿山県有朋の知遇を得て山県に、
一、ドイツ参謀本部に倣って軍制(行政管理)と軍令(作戦始動)を分離すべき。
二、陸軍省に参謀局を設置すべき。
と建議。

⇒鈴木が拠っている典拠が分かりませんが、「ドイツ参謀本部」の箇所は、「陸軍行政長官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD
とドイツ参謀本部<(注2)>」と書かれるべきでしょう。(太田)

 (注2)「1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世はドイツ帝国の初代皇帝となり、プロイセン参謀本部はドイツ帝国の参謀本部となる。参謀総長には帷幄上奏権が認められ、参謀総長は事実上、首相や国会に諮ることなく軍事上の決断をすることが可能となり、極めて大きな影響力を持つことになった。これが第一次世界大戦の敗北の芽の一つと見なされている。軍事的な構想に政治的なコントロールが利かなくなったからである。例えば中立国ベルギーを侵犯する西部攻勢計画のシュリーフェン・プランは、政治家にも海軍の指導部にも知らされることなく唯一の戦争計画となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8

 山県はこれを採用し、明治7年2月に陸軍省第六局を参謀局へ改編し、軍令独立の端緒を開いた。
 日本陸軍のフランス式からドイツ式への転換の第一歩である。
 
⇒「フランス式」まで調べる労を惜しみましたが、英国の場合も、議会主権国ながら、陸海軍の最高司令官は国王であり・・歴史的には、議会の最重要任務は最高司令官の任免でした(コラム#省略)・・、その限りにおいては国王は議会の統制下にはないとされ、従って、英陸軍の場合、議会の統制下にある陸軍省(War Office)/陸軍大臣(Secretaries of State for War)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%9C%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_for_War
、と、国王の最高の幕僚たる陸軍司令官(Commander-in-Chief of the Forces/Commander-in-Chief, British Army)・・事実上の陸軍参謀長・・、とは並列という状況が長く続き、国王の最高司令官性が象徴的な意味しか持たなくなってきていたことを踏まえて後者が前者の隷下に入ったのは1870年になってからのことでした。(上掲)
 桂は、その直後の欧州に留学したわけです。
 明治日本の場合は、ドイツとも英国とも事情が異なり、将来設置が予定されていた議会に対して秘匿される予定であったところの、山縣らの秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂のための戦争遂行なる陰謀、を、陸軍を中心として日本軍に実行させなければならないのだけれど、そのためには日本はいかなる国制を構築すべきかが(山縣らにとっては)問題となり、しかも、陸海軍の最高司令官たる天皇に、その気概がなさそうであることはさておくとしても、天皇がかかる陰謀に関心がなさそうである、ということまでも(彼らは)勘案しなければならなかったわけです。(太田)

 桂太郎は、この実現をみると明治8年3月、みずからドイツ公使館付武官という役職を作って就任し、再び渡欧して3年余、ヨーロッパ列強の軍制研究に没頭し、「日本陸軍は普仏戦争に勝利した新興国家ドイツの軍制を採用すべき」との確信を得て明治11年(1878年)7月に帰国し、ドイツ式の軍政・軍令の二元的軍制の採用を再び建策した。
 山県は桂の建策を採用し、5ヵ月後の明治11年12月、「参謀本部条例」と「陸軍職制」を制定して、陸軍省参謀局を陸軍省から分離独立させて参謀本部とし、みずから初代参謀本部長(のちの参謀総長)に就任した。
 軍政と軍令の分離を定めた参謀本部条例は、第2条で帷幄上奏権を定め、第<6>条では、「軍令は参謀本部長の管知するところにして、天皇親裁の後、陸軍卿に下して施行せしむ」としてシビリアン・コントロールを完全否定したからである。

⇒陸軍省/陸軍大臣は予算・制度を所管しており、明治22年以降も、参謀本部マターであっても、「平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は陸軍省にあり、参謀本部は完全に陸軍省から独立した部署には成りえていなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
ことから、「シビリアン・コントロール」は全くもって否定されてなどいませんでした。(太田)

 これが昭和期の陸軍独走の素地となる。
 また「陸軍職制」第1条は、「帝国陸軍は天皇陛下に直属する」とした。
 これはドイツ帝国憲法の「ドイツ帝国陸軍はドイツ皇帝の指揮に直属する」を直訳したものである。・・・
 山県有朋は一糸乱れぬ陸軍を建軍理念とし、陸軍と内務省に一大派閥を形成。
 天皇陛下の御名を利用して自己の権力を絶対化し、その後も、非立憲的な立場から、政党政治を抑圧するのである。・・・」(26~28)

⇒「政党政治」と「議会制」は同値であり、既に記したように、近代軍を整備・維持しようとしていた山縣が、「政党政治」を抑圧しようとするはずがありません。
 山縣が、「明治18年<から、>・・・<(一挙に>普通選挙を導入して混乱を招くより、等級選挙で地方の有力者の政治参加を望み、<)>地方議会政治を通して彼らを行政事務に慣れさせ、政治家として成長した地方議員達がやがて中央へ進出、将来帝国議会で堅実に政治を行うことを考えててい<て、>・・・山縣が地方自治に熱心に取り組んだ」(上掲)こと一つとっても、そのことは明らかではないでしょうか。(太田)

(続く)