太田述正コラム#12798(2022.6.7)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その26)>(2022.8.30公開)

「・・・西園寺公望<によって>・・・後継首相選定・・・権者から外された内大臣秘書官長木戸幸一は、西園寺邸を訪ね、「若槻礼次郎・高橋是清という政党人を重臣に加えることは、政党の力が増すので反対」と述べて、自身の政治関与を訴えたが、西園寺公望は冷厳に却下。
 元老西園寺公望の招集した内大臣・重臣会議で、前首相斎藤実が岡田啓介<(注35)>を推したのである。

 (注35)1868~1952年。「福井藩士・・・の長男<。>・・・海軍兵学校(第15期)<。>・・・
 1923年(大正12年)に海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、1927年(昭和2年)に海軍大臣となり、1932年(昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。
 1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる<が、>・・・二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失<う。>・・・
 その後の岡田は、・・・<米国>との戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。・・・
 1943年(昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
 東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが・・・岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。・・・
 小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B

 こうして斎藤実内閣の後継は海軍出身の岡田啓介内閣となった。・・・
 斎藤実は・・・海軍内での政権のタライ回し=海軍による政権私物化を行ったのである。」(123~124)

⇒鈴木の言っていること、論理的におかしいと思いませんか?
 「政党政治の復活を目指し」ていたはずの西園寺が、それに反対した木戸を排除したグループで政党政治の復活を否定した、というのですからね。
 なお、鈴木は、西園寺邸を訪ね云々、のところを『木戸幸一日記』に拠っている可能性が大ですが、戦後の極東裁判の時に、同日記が「軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、<他のA級戦犯>軍人被告の激しい怒りを買うことになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
のは、同裁判における木戸の偽証・・例えば、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』(上掲)・・から推して、この日記にはウソが多数記述されていたからだと思われ、「西園寺邸を訪ね」たことは事実だとしても、そこで西園寺と話した内容についての記述はウソだったと見てよいでしょう。
 というのも、木戸が、1930年に「友人であった近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任」したとはいっても、当然、彼を採用したのは時の内大臣、牧野伸顕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
だったわけであり、1935年に牧野の後任の後任の湯浅倉平(上掲)の更に後任に木戸が就任した1940年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80 前掲
においても、その人事に牧野は同意しているはずであり、西園寺の意向が、内大臣に、自分と共に、そして自分の死亡後にはその現役/OBに、首相指名権を与える、というものであった以上、首相指名に関する考え方を含む、広義の思想において、牧野が自分と異なる人物を、自分のサブに任じたり、自分の後任の後任に就任させたり、するはずがないからです。(太田)

(続く)