太田述正コラム#12800(2022.6.8)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その27)>(2022.8.31)

 「・・・昭和天皇に天皇親政を勧め、侍従長鈴木貫太郎と組んで政友会総裁田中義一首相を総辞職へ追い込んだ内大臣牧野伸顕は、この頃、四囲から、「昭和天皇を政治利用している」と厳しい批判を浴び、牧野暗殺の噂が飛んだ。
 かくして進退窮まった内大臣牧野伸顕は昭和10年<(1935年)>12月26日に内大臣を辞した。
 すると元老西園寺公望は、後任の内大臣に、前首相斎藤実を据えた。
 こうして元老西園寺公望は復権の足掛かりを築いた。
 これが上流階級の喧嘩のやり方である。・・・

⇒「健康がすぐれず、また、就任以来15年になるので人心を新たにすることを退任の理由とした。牧野には当時持病として神経痛とじんましんがあり、1932年以降には、宮中での晩さん会の中座、陸海軍大演習の不参といった、公務にも支障をきたすほどの容体になっていた。・・・牧野<は>後任の内大臣には湯浅倉平を推薦し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
 「昭和10(1935)年に辞職するまで,国際協調推進,立憲政治擁護の立場で西園寺元老と共に天皇を補佐し,<天皇の>深い信任を得た。そのため軍部,民間の「革新」派から「君側の奸」として攻撃され,暗殺の対象とされた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95-135731
というのが通説ですが、「国際協調推進,立憲政治擁護の立場」は、私見では「国際協調推進,立憲政治擁護であるかのような立場」である、という一点を除き、私はこの通説に首肯できるところ、鈴木は一切根拠を示さず、妄想的少数説を記しているわけです。
 なお、役人の世界の常識からして、不祥事によらないこういう自発的辞任の場合、同時に後任を推薦するものであり、牧野と西園寺が事前に話し合いを行い、不本意な形で首相を辞めることになった斎藤を取敢えず内大臣にし、その次に、(斎藤が朝鮮総督の時に朝鮮総督府政務総監を務め、当時、宮内大臣だった)湯浅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%80%89%E5%B9%B3
を内大臣にすることとされた、と、私は想像しているところです。
 以下、先を急ぐことにしましょう。(太田)

 西園寺公望は、廣田弘毅内閣が陸軍の圧力で政権末期を迎えた昭和11年12月頃、「陸軍を制御し、支那における陸軍の軍事行動を抑制し得る後継首相は、宇垣一成しか居ない」との腹を固め各方面に打診した。・・・
 肝腎の陸軍では、陸相寺内寿一大将が、・・・<賛成である>との意向を示した。
 これを受けた元老西園寺公望は、・・・前朝鮮総督・陸軍予備役大将の宇垣一成を、内大臣湯浅倉平を通じて、昭和天皇に推奏。
 宇垣は昭和天皇から昭和12年<(1937年)>1月25日午前1時に組閣の大命を受けたのである。・・・
 <ところが、>陸軍省軍務局は、・・・陸相寺内寿一を無視して、宇垣一成の首相就任に大反対したのである。」(125、162)
 
⇒通説は、「[石原莞爾参謀本部第一部長]心得は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」したが宇垣はこれを無視して大命を受けた。
 しかし、石原は諦めず、軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮く。宇垣は小磯に直接陸相就任を打診したが、「三長官会議で合意がとれればよい」「(合意がとれないから直接頼んでいるのだと詰め寄った宇垣に)三長官会議の合意がとれない状態で引き受けても、東京に向かう途中で『予備役編入』の通知を受け取って無駄骨になる」と言われている。
 当時予備役陸軍大将だった宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、失敗した際の宮中への悪影響を恐れた湯浅らに拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた。・・・
 西園寺もこの組閣失敗によって気力をなくし、天皇の下問と奉答を辞退したい意向を述べるほどであった。・・・
 組閣流産から半年後の昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入した。近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し、いわゆる近衛声明(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)を発するに及んで泥沼化が懸念されていた。事態を憂慮していた宇垣は昭和13年(1938年)5月の<近衛>改造内閣に外務大臣として・・・入閣<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE ([])
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
としているところ、私は、西園寺、牧野、湯浅、杉山、の間の調整で齟齬が生じ、フライングで、西園寺、湯浅のラインで昭和天皇から宇垣に組閣の大命が下ってしまい、慌てた(教育総監の)杉山が、(杉山構想を明かさず、満州事変を起こさせた、この時参謀本部にいた)石原に命じて、組閣妨害工作をやらせた、と見ています。
 宇垣は、「大正2年(1913年)、山本権兵衛内閣による陸海軍大臣現役制廃止・・・に反対する怪文書を配布し、陸軍省軍務局軍事課長の要職から名古屋の歩兵第6連隊長に左遷され<ているところ、>・・・広田内閣の時に復活したその現役武官制により<、かつまた、>・・・大正13年(1924年)、清浦内閣の陸軍大臣に就任した<が、>組閣の際、陸軍の長老・上原勇作元帥は福田雅太郎を推した<のに反対した>田中<義一>は陸軍三長官会議の合意を説得材料としており、以後、陸軍三長官の推薦に基づき陸軍大臣人事を決定することが慣例とな<ったこと>・・・により<、>組閣断念に追い込まれ<る>」(上掲)という悲喜劇の主人公を演じたわけですが、このうち、軍務大臣現役武官制については、こういうこともあろうかと、杉山が廣田(首相)に予め復活させておいたのでしょう。
 とにかく、杉山としては、自分の次官当時にその時陸軍大臣であった上司の宇垣に杉山構想の概要くらいは教えた上で、1931年の三月事件の首謀者になることを飲ませたにもかかわらず、最後の瞬間に日和って逃げてしまった宇垣を絶対に許せなかったのだと思うのです。
 なお、西園寺にとっても杉山にとっても結果的に幸いだったのは、こうなったらもはや近衛しかいない、という機運が日本中で高まったったため、しり込みし続けてきた近衛をその4か月後に首相に引っ張り出すことについに成功したことでしょう。
 こうして、近衛内閣に日支戦争を勃発させることで、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達の中枢は、1931年に始めていたところの杉山構想遂行戦争の本格化に成功するのです。(太田)

(続く)