太田述正コラム#12818(2022.6.17)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その7)>(2022.9.9公開)

 「・・・<戊辰戦争中の北越戦争の際、>時山直八<(注8)(前出)>・・・<は、>山県の手違いで応援部隊が遅れたにもかかわらず、多くを語らず先に行き、勝利目前まで先頭に立って奮戦し、銃弾に倒れた<ところ、>・・・山県<は、その後、累次、時山を偲んでいる。>・・・

 (注8)「1862年・・・尾寺新之丞らとともに。「航海遠略策」を朝廷に周旋するために上洛する、長井雅楽の供として京都へ随従する。
 ちょうどこの頃、「航海遠略策」に反対し、長井その人の暗殺をも計画していた久坂や山縣たち松門生たちである。
 久坂たちの過激な行動をなんとか思いとどまらせようと時山たちをあえて送り込んだのは、桂小五郎であった。
 桂はこれ以上無駄な犠牲は出したくない、今はまだ時期尚早であると判断していたためである。
 久坂たちの暴走を抑える役目も、時山たちは請け負っていた。
 1863年・・・時山は主に久坂たちと行動を共にしており、石清水八幡宮行幸にも警備の一員として随従し、馬関での攘夷決行時には光明寺党の一員として出撃している。
 <八・一八>の政変時にも、禁門の変にも常に久坂や桂たちと行動し、また奇兵隊にも早くから参加し、戦いの最前線に立ち続けた。
 1864年・・・四国艦隊との馬関戦争では、奇兵隊を率いて前田砲台の攻防戦を指揮し、1866年・・・の四境戦争において、軍監山縣を補佐する参謀として、4ヶ月に及ぶ激戦の最前線で陣頭指揮をした。
 1868年・・・北陸道鎮撫総督参謀の山縣有朋らとともに越後へ向かうことになる。
 越後長岡藩は強く、佐幕派諸藩の連携も取れており、長岡城攻略は難航した。
 攻略の要となる朝日山・妙見峠を会津藩兵から奪還すべく、5月13日奇兵隊の精鋭は峠を攻め上るのだ。
いったんは会津藩兵を退却に追い込んだのだが、桑名藩から応援に来ていた立見鑑三郎率いる雷神隊の猛反撃にあい、陣頭にて指揮していた時山は、敵兵に撃たれて即死。」
http://mn1552.blog15.fc2.com/blog-entry-219.html

⇒この時、山縣が、西園寺公望総督の下で戦った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 
ことの方が、その後の歴史の観点から、はるかに重要なのですが・・。(太田)

 山県は北越・会津の戦いがすむと、・・・明治元年(1868)10月7日、・・・三島で・・・明治天皇の江戸方面への行幸に同伴していた木戸孝允に・・・会うことができた。
 山県は木戸に、かねてからの希望であった欧州巡遊について、新政府や長州藩方面への同意を取り付けることを依頼した。
 さらにその後、他の先輩にも洋行を懇願した・・・。
 この約半年前、山県は江戸から京都に向かう船の中で西郷隆盛にも洋行の意志を告げ、西郷の同意も得<てい>たという・・・。
 明治2年3月6日、山県の欧州視察の辞令が、新政府の行政官から出た。
 同じ日、西郷従道・・・にも同様の辞令が出た。
 これは木戸が、長州から山県ら2人を欧州に行かせようと周旋していた時、西郷も欧州行きを計画した結果であった・・・。
 木戸は山県と西郷の件で、公家の中で実権を持つ岩倉具視の賛成も取り付けた・・・。・・・
 <さて、>山県と西郷従道は、・・・明治2年(1869)・・・6月28日、欧州へ向け長崎を出発した。
 山県は井上馨や木戸を通して、通訳官を同伴してくれるよう新政府に願い出、一人の日本人が同行することになった・・・。
 山県らの渡欧は、6年前の伊藤博文や井上馨らのイギリス渡航と較べると、大名旅行といっても良い。・・・
 <しかし、>通訳官がついたことで、山県は楽な旅行ができたが、外国語を身につける最後のチャンスを失ったといえる。・・・
 西郷従道は<フランスを中心に、プロイセン(ドイツ)とロシアも巡遊>を選択した<
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93-17982
が、>真面目な山県は、日本の軍制の改革にあたって、欧州の主要国をすべて見てやろうと欲張った。
 このため、山県は・・・イギリス・・・ベルギー・<プロイセン>・オーストリア・ロシア・オランダ<と、>・・・七ヵ国も巡遊し、欧州滞在は観光旅行に近いものになってしまった。
 それでも山県は、ロンドンに滞在中に英語を習得しようと勉強を始めたが、30歳を越えて今さら語学勉強でもあるまいと、あきらめたという・・・。・・・
 山県は明治2年11月17日に木戸に手紙を書き、欧州では「合衆政」(共和政)を望む潮流が広まっており、イギリスにおいてすら、「王威」は地に墜ちてしまうような状況で、嘆かわしいことである等と論じている・・・。
 山県は、天皇を中心とした国家を創るということを目指していた日本の基準から欧州諸国を見て、欧州を批判する、という思考をした。・・・
 それは、山県が生真面目で几帳面な性格で、吉田松陰の教えなど少年から青年期に学んだ価値を、固定的にとらえがちであったことが関係している。
 また外国語の修得をあきらめ、しかも一年に満たない期間に七ヵ国も巡遊したために、見聞がやや表面的なものになったからでもある。
 このため、欧州に存在しているものと、起こっていることの背景にある西欧文明の本質的なものに、あまり近づくことができなかった。
 それでも山県は、・・・フランスとドイツの徴兵制度については十分に学び、徴兵制論者になった。・・・」(65~66、70~71、74~76)

⇒山縣は単に西郷よりも多くの諸国を巡遊したというだけのことのようであり、西郷についても、フランス語なりを身につけた的な話は伝わっていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93
ところ、どちらも、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であったと私が見ている、この2人、のこの巡遊時における若干の違いは、山縣が国家指導者志向で軍事を支える国制に興味があったのに対し、西郷は軍事指導者志向で軍事制度そのものにもっぱら興味があって、(彼は後に関心を海軍に移す(上掲)けれど、)当時、(まだ、フランスがドイツに敗北する1870年の普仏戦争の前であり、)世界で最も陸軍強国とされていたフランスの軍制に最も興味があったものの、どちらも大陸軍国として知られていたプロイセンとロシアの軍制にも興味があった、ことに由来したのではないかと思います。
 いずれにせよ、山縣も西郷も、実務家だったので、「西欧文明の本質的なもの」になど興味はなかったはずです。(太田)

(続く)