太田述正コラム#1751(2007.4.29)
<エストニア立像撤去騒動>(2007.5.31公開)
1 始めに
 27日の早朝にエストニアの首都タリン(Talinn)で、1944年のソ連軍によるエストニアのナチス占領からの「解放」を記念する2メートルの立像(注1)(1947年設置。その下にソ連軍兵士の遺体が複数埋められているとされている)が撤去され(注2)ると、これに抗議するロシア系による暴動が起き、2日間で、1人が死亡し、警官を含む多数の153人の負傷者が出、多数のショーウィンドウやビルのガラスが割られ、車が横転させられ、約800人も逮捕される事態となり、ロシアでは、上下両院でプーチン・ロシア政権に対し、エストニアを懲罰せよ、あるいはエストニアに経済制裁を加えよ、あるいはエストニアと国交を断絶せよとする声が挙がりました。
 (注1)立像の碑文には、以前は、「大祖国戦争(Great Patriotic War )に斃れたソ連の解放者達のために」と記されていたが、1995年に、「第二世界大戦で斃れた人びとのために」に差し替えられ、永遠の火も同じ時に撤去された。
 (注2)撤去された立像と、これから撤去される遺骸は、軍用墓地に移設・埋葬される予定。
2 背景
 ちなみに、ロシア系はエストニア総人口130万人中30万人もいます。
 エストニア政府は、この立像がタリンの中心部にあるために、エストニア人とロシア系のナショナリストの対立の象徴となっており、また、墓地としてふさわしくない場所であることを撤去の理由としています。
 ロシアのラブロフ(Sergei Lavrov)外相は、「これは涜神的(blasphemous)な行為であり、両国関係に深刻な影響が出るだろう。・・<エストニアの>人びとが、共産主義をナチズムと比べよう・・とすることは理解に苦しむ」とエストニアを非難しました。
 エストニア人からすれば、ソ連軍は、モロトフ・リッベントロップ秘密協定(Molotov-Ribbentrop pact)に基づき、1940年6月にエストニアを占領し、ナチスドイツによって追い出された3年間を除いて、1991年まで居座り続けた、というだけのことです。
 この間、何万人ものエストニア人がソ連によって殺されたり、収容所送りになったり、弾圧されたりしました。
 また、ソ連の他の非ロシア地区同様、エストニアにはロシア人が労働者として、あるいは軍人として送り込まれました。これは、植民地化政策であると受け止められ、その結果、現在でも30万人ものロシア系がエストニアに居住しているのです。
 ロシア側から見れば、独立後のエストニアが、隣国のラトビア、リトワニアとともに2004年にEUとNATOに加入したことや、独立後のエストニアでロシア系が二級市民扱いされているのは腹立たしい限りだ、ということになるわけですが、より根本的な問題は、ロシアでいまだにソ連時代の第二次世界大戦史観が維持されていること、またこれと関連して、現在のロシアのTVを中心とする国営メディア・・このメディアをエストニアのロシア系も視聴している・・がナショナリスティックな一方的な物の見方を視聴者に吹き込んでいることです。
 エストニアのイルヴェス(Toomas Hendrik Ilves)大統領は、先月のロシアの某国営新聞のインタビューで、「自分自身を民主主義体制と認めているロシアが、ソ連の歴史と正面から向き合うことができないことは私の理解を超えている。遺憾ながらロシアは、過去について盲人のブラフをいまだに演じている。」とロシア人に反省を呼びかけたばかりです。
 また、ロシア国内での第二次世界大戦の記念碑が壊されてもほとんど問題にされていないことも指摘されています。
 例えば、今月モスクワの公害で。道路拡張のため、6人の操縦士の墓が撤去されたのですが、抗議の声はほとんど挙がらず、1人抗議した人物は、警官に殴打されたといいます。 
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2067441,00.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6599145.stm
http://www.nytimes.com/2007/04/27/world/europe/27cnd-estonia.html?pagewanted=print
(いずれも4月28日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/reuters/world/international-estonia-russia.html?pagewanted=print
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/27/AR2007042702434_pf.html
(どちらも4月29日アクセス)による。)
3 終わりに
 先週、エリティン(Boris N. Yeltsin)の葬儀が行われたばかりですが、エリティンが新生ロシアの経済を破綻させたことで自由・民主主義への幻滅感がロシアに蔓延したと思ったら、そのエリティンを継いだプーチンは、ロシアの自由・民主主義を完全に形骸化させてしまいました。
 しかし、エリティンがソ連を崩壊させたことは高く評価すべきですし、彼がロシア史上初めて、自ら「退位」した元首となったことも特筆されるべきでしょう。
 プーチンは、エリティンを、エリティンが廃止した旧ソ連国歌を歌詞だけ変えて復活させたロシア国歌で、葬送しました(注3)が、プーチンもまた現任期で「退位」することを繰り返し表明しています。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/04/29/weekinreview/29myers.html?pagewanted=print
(4月29日アクセス)を参考にした。)
 (注3)ロシア国家元首の葬儀としては、最後の一つ前のロシア皇帝のアレクサンドル3世の1894年の葬儀以来、初めてロシア正教で行われた。
 このようにロシアにおいても、まだ自由・民主主義化の可能性が絶たれたわけではありません。
 そのためにも、ロシアの人びとが、ファシズムとほとんど同等におぞましいスターリン主義のソ連の歴史と正面から向きあう必要があるのですが、一体、我々としては、どうやって彼らにそれを促したらよいのでしょうね。