太田述正コラム#1781(2007.5.26)
<英国・日本・捕鯨(その1)>(2007.7.13公開)
1 始めに
 捕鯨問題については、これまで何度となくとり上げてきた(コラム#766~768、1272、1273、1307、1313、1317、1318、1320)ところですが、英BBCが2回に渡って、日本側の視点を紹介する記事を電子版に掲載したので、ご紹介の上、私のコメントを記したいと思います。
 便宜上、後の方の記事B(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6667797.stm
。5月24日アクセス)を、最初の記事A(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6659401.stm
。5月19日アクセス)より先にとり上げることにしました。
2 日本人の宗教意識と捕鯨
 (1)記事Bの概要
 日本は、殺生戒を持つ仏教の国であり、また、欧米流の動物愛護精神も普及しているというのに、どうして爆発性の銛を使った残酷な捕鯨を止めないのだろうか。
 そこで、1600年代から捕鯨が行われてきた山口県長門市の捕鯨博物館を訪問した。
 日本人は、宗教的理由から支配者達は、長く肉食を禁じてきた。
 しかし、海の幸に関しては、魚類と動物とを区別することなく、食してきており、鯨は、8,000年前からずっと食用に供されてきた。
 油だけ採って後は捨ててしまった欧米とは全く違って、鯨の油や骨は肥料にされ、肉は、陰茎を含むあらゆる部位が調理され食された、と展示されている。。
 長門の人々が捕鯨を止めてから1世紀が経つ。
 それでも、毎年、人々は伝統的な衣装をまとい、伝統的な舟に乗って、伝統的な銛をかざして金属製でスクリューで走る鯨を捕るお祭りを行っている。
 長門には、鯨の胎児の共同墓もある。
 捕った鯨が胎児を宿していると、人々は、この胎児を海の見えるお寺の境内に17世紀に設けたこの墓に葬ってきた。鯨の胎児は、生前海を見ることがなかったので、死後は毎日海が見えるようにというわけだ。
 このお寺には、亡くなった檀家の戒名が記録されている過去帳があるが、ちゃんと仏教式の戒名をつけた鯨の過去帳も残されている。
 住職は、鯨に対する人々の感謝の念から、鯨も弔いの対象になってきたと語った。
 このお寺は浄土真宗に属しており、この宗派では、僧侶が妻帯することも、信者が一定の制限の下で肉食することも認めてきた。
 この住職は、「開祖の・・<親鸞>聖人がある漁村を1207年に訪れた時、一人の漁師が妻とともにやってきて、自分達は魚を捕りそれを食べたり売ることで生きてきたが、死んだ後地獄に落ちるのだろうかと質問した。すると聖人は、もしお前達が魚達に感謝し、きちんと供養する・・この魚達が平和のうちに眠ることを祈る・・のであれば、何も心配することはない、とお答えになった。これを聞いた二人は泣いて安心した。」という話も披露してくれた。
 日本では、タイ等の他の東アジア諸国とは違って、色鮮やかな寺院があらゆる街角にあるというわけでもなければ、オレンジ色の衣を纏った僧侶達が喜捨を求めて歩き回っている姿も見られないが、それでも仏教の教えや習慣はいまなお生きている。
 私には、冒頭掲げた鯨をめぐる日本の「矛盾」について、若干なりとも理解が深まった思いがした。
 (2)私のコメント
 BBCは、同じ英国のガーディアンやファイナンシャルタイムスに比べると、日本に関し、時に杜撰な、あるいは偏見のある記事が出ることがあり、クォリティーが低いのですが、この記事はなかなか秀逸だと思います。
 ただし、若干補足すれば、
 「『後漢書』「倭伝」に日本は「土気は温かくなごやかで、冬も夏も野菜が生産され、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」 と紹介され<てい>ます。この表現は『魏史』「倭人伝」の狗奴国の記事と似ており、紋切り型で忠実な描写ではないかもしれませんし、また遺跡から骨が出るので牛馬 もいたのですが、しかし、牧畜でなく畑が目立つ風景だったことは確かでしょう。肉(シシ)も食べてはいたけれど猪、鹿(カノシシ)で、狩猟によるものが主でした。コーサンビーは、インドの菜食主義が豊かな農作物を生み出すインドの大地を抜きには成り立たないことを指摘しますが、同じことが日本の風土にもいえるでしょう。仏教の影響をうける以前から、日本には米を柱とする肉食に依存しない食文化が確立されていたようです・・。日本で最初の肉食の禁令は、天武4年(675年)4月の禁令とされています(注)が、<このように、>四つ足を食べない伝統の起源は、はるかに古い<の>かもしれません」(特に断っていない限り
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/c/husessho.html
(5月26日アクセス)による。)
 (注)日本では、聖武天皇(~749年)の頃、改めて魚や肉の殺生の禁令が出たことを契機に、それまで魚醤が使用されていたところ、穀醤(大豆を原料とする醤油、等)が使用されるようになったとされる(
http://blog.livedoor.jp/yoshikonbu1130/archives/cat_50003094.html
。5月26日アクセス)。
というわけであり、日本人の、肉食の忌避はもとより、あらゆる生き物への慈しみについても、仏教伝来以前からの日本人の生き様ないしは宗教意識に根ざす、と考えるべきでしょう。
 ちなみに、
 「すでに江戸時代から合理主義的な考え方が育っていて、明治初期、その土壌に福沢輸吉らが蒔いた肉食肯定の種は、すぐには芽を出さず、食肉消費量の伸びに結びつかなかったけれど、肉食を受け入れる傾向は着実に成長して、第二次大戦後、政府が栄養改善運動にのりだし学校給食で肉が出されると、流通革命でスーパーが全国くまなく商品を行き渡らせるようになったこともあいまって、肉食文化はいっきに花開いたのでしょう。」(典拠:同上)
という次第であり、戦後のこの過程で学校給食を通じて、肉食一般とともに、鯨食の習慣もまた日本全国に広まった(コラム#766、767、1698)ことを付言しておきましょう。
(続く)