太田述正コラム#1779(2007.5.24) 
<スターリン(その3)>(2007.11.27公開)
4 独裁者スターリンの謎に迫る
 以上見てきたように、スターリンには二面性があるわけだが、果たして知性・感性溢れる家庭人であり、同時に殺戮者であるなどということが両立するものなのだろうか。
 ちなみに、スターリンは、若い頃にボルシェビキの同僚から、全体のために奉仕することを旨とする共産主義者というよりも自律性と独自性を重視する個人主義者である、と批判されたことがある。
 このスターリン評は当たらずといえども遠からずであり、スターリンの中には沢山の「個人」が同居していた。当時スターリンは数々の偽名を使いわけ、変装の名人と言われていた。
 しかも、ボルシェビキのために沢山の「個人」を使い分けていただけでなく、帝政ロシア政府の諜報機関のスパイ役まで勤めていたのだというのだから開いた口が塞がらない。
 それにしても、スターリンを虐殺者たらしめたものは一体何だったのだろうか。
 スターリンが暴力的な家庭で育ち、ロシアで最も暴力的な都市で育ったことは事実だが、スターリン自身が、残酷さ・野望・自己過信・他人への感情移入の希薄さ、といった、独裁者に適合的な性格的偏りを持っていたことの方が大きい。
 他人への感情移入(empathy)の希薄さは、スターリンがグルジア人であり、ロシアの民衆一般と民族的・社会的に自己同一化できなかったことから来ていると考えられる。
 ちなみに、レーニン(Vladimir Ilyich Ulyanov。1870~1924年)の父は帝政ロシアの高級官僚であり、トロツキー(Leon Davidovich Bronstein。1879~1940年)はユダヤ人であったことから、やはりスターリンと同じことが言えそうだ。
 決定的だったのは、ボルシェビキの文化そのものだ。
 ボルシェビキは、初期において、メシア的ファナティシズムに突き動かされつつ地下で非合法活動に従事していた。秘密・非寛容・陰謀・暴力はそんな活動にはつきものであり、若きスターリンは、このボルシェビキの中で頭角を現す。
 つまり、ボルシェビキがスターリンをつくったといえよう。
 それが証拠に、粛清は、1917年にレーニンが権力をロシアで掌握してから間もなく始まっており、それが、スターリンの死まで続いたのだ。
 それに、スターリンはレーニンの死後、1929年にソ連の権力を掌握する(注1)ものの、最近明らかになったことなのだが、それ以降も1937~38年の大粛清の頃までスターリンが権力闘争に晒され続けた(注2)ことだ。
 (注1)レーニンが亡くなると、スターリンは、どちらもユダヤ人であるところのジノヴィエフ(Grigory Yevseevich Zinoviev。1883~1936年)とカーメネフ(Lev Borisovich Kamenev。1883~1936年)と手を組んで、左派のやはりユダヤ人のトロツキー、及び右派のブハーリン(Nikolai Ivanovich Bukharin。1888~1938年)と闘った。トロツキーの追放に成功すると、スターリンは今度は右派のブハーリンとルイコフ(Alexei Ivanovich Rykov。1881~1938年)と組んで、1917年の蜂起に反対したとしてジノヴィエフとカーメネフと闘い、勝利する。その上で、最後にスターリンは、ブハーリンとルイコフを葬り去った。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stalin
。5月24日アクセス。以下同じ)(太田)
 (注2)かつてのボルシェビキの中堅幹部であり失脚していたリューティン(Martemyan Ryutin。1890~1937年)が、1932年に、強制的集団農場化の中止・工業化のペースダウン・追放されたボルシェビキ指導者達の復権等を唱え、スターリンを激しく攻撃する文書を配布するという事件が起こっている。また、スターリンは、キーロフ(Sergey Mironovich Kirov。1886~1934年)の人気に押され気味であったところ、1934年にキーロフが暗殺されてほっと一息ついたと考えられる。スターリンは、この暗殺の背後にトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがいたと容疑をでっち上げ、国内で流刑にされていたジノヴィエフ、カーメネフらを改めて引っ立ててきて、見せ物裁判にかけ、粛清した(後述)。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ryutin_Affair
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergei_Kirov
)(太田)
 1932年から33年にかけて、スターリンがウクライナ人弾圧のためにあえて大飢饉を引き起こして600万~700万人の餓死者を出したこと、ボルシェビキの大物政敵ジノヴィエフやカーメネフを見せ物裁判(show trial)を行った上で1936年に粛清し、これがボルシェビキの幹部を殺す最初の事例となったこと、それがスターリンが1937~38年に実施した、ボルシェビキを対象とする大粛清(Great Purge)の前触れとなったこと、そして戦後にスターリンがユダヤ人粛清を行った(注3)ことは、このような文脈の中で理解されなければならない。
 (注3)スターリンは死ぬまで執拗に粛清を続けた。1953年にユダヤ人医師達によるソ連共産党幹部暗殺計画(Doctors’ plot) が明るみに出るが、同年のスターリンの死の直後に、これがスターリンによるでっちあげであったことが明らかにされた。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Doctors’_plot
)(太田)
 つまりスターリンは、その治世を通じて対民衆と対政敵という二正面作戦に明け暮れた、ということだ。
5 感想
 モントフィオールが摘示する、スターリンに関する事実の圧倒的な重みの前には語る言葉もありません。
 スターリンには神と悪魔が同居していた、という感を深くします。
 ここで大事なことは、スターリンの中の悪魔を解き放ったのは、欧州文明が生み出した民主主義独裁の思想の一つである共産主義であったということです。
 毛沢東や金日成/金正日もそうです。
 ナポレオンの中の悪魔を解き放ったのは、やはり欧州文明が生み出したナショナリズムでしたし、ヒトラーの中の悪魔を解き放ったのも、これまた欧州文明が生み出したファシズムでした。
 ところが、ナポレオンもヒトラーもアングロサクソンの手で葬り去られたというのに、スターリンも、毛沢東も金日成も、権力を掌握したまま大往生を遂げることができました。
 それは、できそこないのアングロサクソンである米国のために、20世紀に入ってから日本が疎外され、日本を含めた自由・民主主義勢力が一体となって共産主義に対抗することができなかったからです。
 そもそも、毛沢東や金日成が、それぞれ支那と朝鮮半島北部の権力を掌握できたのは、米国が日本を疎外し、あまつさえ先の大戦で日本を打ちのめすという愚かなことを行ったせいです。
 スターリンや毛沢東や金日成の犠牲になった無数の無辜の人々の鎮魂のためにも、格下ではあるとはいえ、せめて金正日は、権力を掌握したまま死なせてはいけないと思うのですが、相変わらずのできそこないぶりを発揮している米国と、いまだに吉田ドクトリンを克服できない日本を見ていると、この私のささやかな願いも実現しないかもしれませんね。
(完)