太田述正コラム#13428(2023.4.17)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その37)>(2023.7.13公開)

 「・・・近衛新党運動<(注121)>は、近衛の変心と第一次内閣の投げ出し(1938年末)により頓挫した。

 (注121)「斎藤隆夫の反軍演説を契機に各政党の有志議員が聖戦貫徹議員聯盟を結成し、政党の解消・一大強力政党の結成を主張した。」
https://www.ndl.go.jp/modern/cha4/description11.html
 「実際のところ、斎藤の政府批判の内容自体は過激なものではなく、当時の一般国民が日常的に思っていた不満程度の内容でしかなかったのだが、公式の場で発言されることを政府や陸軍は嫌った。特に海外に内容が広まることで支那事変の解決に悪影響が出ることを警戒した。・・・
 粟屋憲太郎『日本の政党』369、370頁では、武藤章は演説中から既に憤激の素振りを見せており、演説の直後からその内容に強い不満を表明し、政府に対して厳しい処置をとるよう迫った、と書かれている。一方、勝田龍夫『重臣たちの昭和史』では、演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していた、と書かれている。・・・
 反軍演説の直後から陸軍や時局同志会、社会大衆党が、斎藤の演説は「聖戦の目的を冒涜するもの」であると攻撃を始め、後には海軍もこれに加わった。
 反軍演説に対し、一部議員からの批判はあったが、国民からの批判はなく、逆に斎藤への感謝や激励の電報や手紙が多数送られた。・・・
 その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、町田の求心力は落ち、後の解党への流れとなる。政友会久原派も反対した5名に離党勧告、総裁の久原房之助は党の分裂を避けるため除名を強行しなかったものの、事実上、党内は分裂状態に陥っており、 この数か月後に生じた「近衛新党」の動きの中で、積極的な解党へと向かう。社会大衆党は、書記長麻生久により、党首の安部磯雄・片山哲・鈴木文治・西尾末広ら除名に賛成しなかった8名に離党勧告を出した。安部ら8人は離党を拒否したため、党中央は3月10日に除名処分を強行、社会大衆党も分裂状態になった。党の主導権を握った麻生久ら日労系の勢力は、反対派を追放することにより、軍部に従順な態度をより鮮明にした。除名から2日後の3月9日には、衆議院は本会議で「聖戦貫徹ニ関スル決議案」が超党派の議員から提出され、全会一致で可決された。同月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成された。親軍部の政友会中島派、時局同志会、社大党の主張通り、革新運動が加速し、戦争遂行のための協力体制と称し、大政翼賛会への流れへと直結した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%BB%8D%E6%BC%94%E8%AA%AC
 「近衛文麿を中心として、国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年(昭和13年)の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には有馬頼寧・大谷尊由らが近衛を党首とした新党を設立して解散総選挙を実施することを検討したものの、大日本帝国憲法下の戦前期日本の政治において二大ブロック制を構成し、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた立憲政友会(政友会)・立憲民政党(民政党)が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が希薄になったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A

 だが、第二次世界大戦勃発後にドイツが欧州大陸を制圧したことを契機として、1940年に運動<(注122)>は再燃し、陸軍は挙国的政党の結成、および総動員体制下の国民組織化を求めて活発な政治的主張を行った。」(229~230)

 (注121)「「新体制運動」が進められた背景には、「私有財産制廃止を要求する社会主義運動の広まり」と、「世界的な全体主義の台頭」が挙げられる。当時、欧州の一部の国々、とりわけソビエト連邦、イタリア王国、ナチス・ドイツで、一党独裁による「挙国一致体制」が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)を果たしているかのように見受けられたことから、私有財産を廃止した全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。また、日本に先行して全体主義体制の確立を試みていた満洲国(1932年建国)の満洲国協和会も、新体制運動に影響を与えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95
 「満洲事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于冲漢らの自治指導部が・・・満洲国協和会・・・の起源である。満洲国建国に至り、自治指導部は解散したが、このうち合流していた大雄峯会(主に資政局に流れた)の中野琥逸、満洲青年連盟の山口重次、小澤開作、于沖漢の子于静遠、阮振鐸らが奉天忠霊塔前で「満洲国協和党」を結成、軍司令部の石原莞爾と板垣征四郎から設立準備金2万円が拠出され、さらに結党宣言と綱領を監督した板垣・石原のブレーン宮崎正義の「ソ連や中国国民党と同じく、政府が補助金を出すべきだ」との提案により年額120万円が国庫から支弁されることになり、協和党という名称に反対した愛新覚羅溥儀の意向もあって溥儀を名誉総裁とする満洲国協和会に改組された。
 石原莞爾は溥儀と関東軍に代わる満洲国の「将来の主権者」として協和会による一党独裁制(一国一党)を公然と目指していた。しかし、協和党から協和会への改組当初より小磯國昭らが山口や小澤ら旧協和党の古参を排除して関東軍と日系官吏による「内面指導」を強化して教化団体化を図り、特に協和会中央本部の甘粕正彦や古海忠之らと協和会東京事務所を拠点とする石原一派の対立からはその存在意義は変質して日中戦争を機に国家総動員体制を担いはじめた。1937年7月に協和会青年訓練所、1937年8月に協和義勇奉公隊、1938年6月に協和青少年団を創設、1940年からは分会と連携して全住民や各家庭に浸透させる隣組を設置、1941年4月に各県長や各省長が地方の協和会の本部長を兼任することになり、政府行政と完全に一体化した(これは道府県支部長を道府県知事が兼任した大政翼賛会と同様である)。
 協和会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立された。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これらの分会を統括した。開設されなかった立法院に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に民意を汲み取る機関として期待された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%92%8C%E4%BC%9A

⇒帝国陸軍主導で設立された満洲共和会は議会(立法院)の代替であったのに対し、近衛新党/新体制/大政翼賛会は、既に議会があり、かつ挙国一致内閣が成立していた日本においては、存在意義の殆どないものだった、というのが私の見解です。
 そんなことは、帝国陸軍、就中杉山元らには常識であったはずであり、従って、小山の言うところの「陸軍は挙国的政党の結成・・・を求めて活発な政治的主張を行った」は、具体的根拠レスの思い込みではないでしょうか。(太田)

(続く)