太田述正コラム#13636(2023.7.30)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その5)>(2023.10.25公開)

 「・・・北魏の三代皇帝太武帝(世祖)が華北を統一してまもない・・・443年・・・、・・・北魏の先祖の遺跡があるという報告を受けて、太武帝は<部下>を派遣して祖先を祭らせ、呪文を室内の壁に記させた・・・。・・・
 中国の考古学者の米文平氏は、・・・大興安嶺一帯での洞窟調査を行<い、>1980年、内モンゴル自治区阿里河鎮の<洞窟>にて、・・・<この>碑文を発見<し、>・・・<この>洞が・・・<太武帝の言う>拓跋部の故郷であることが証明された<とした>。
 その後、中国の考古学者の宿白氏が、内モンゴル各地で発見された鮮卑墓<等から、>拓跋部の南下ルートを明らかにし<たと主張し>、現在これが定説となっている。・・・
 <それに対し、>韓昇・蒙海亮・・・<両氏>は、北魏皇族の末裔である隋の元威の父系遺伝子を調べ、それがロシア連邦東部のザバイカリエ<(注12)>に高頻度に分布することから、拓跋部はザバイカリエ地区から呼倫湖(フルン・ノール)<(注13)>に移動したと結論づけ、<上出の>洞を拓跋部発祥地とする・・・説に異を唱える。・・・

 (注12)ザバイカリエ地方(クライ)は、「2007年4月に行われた住民投票でチタ州とアガ・ブリヤート自治管区の合併が決定、2008年3月1日に両者が統合されザバイカリエ地方が発足した。
 歴史的にはザバイカルと呼ばれてきた地域にあたる。
 中華人民共和国とは998km、モンゴル国とは868kmの国境を有し、国内ではイルクーツク州とアムール州とブリヤート共和国とサハ共和国に隣接する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%A8%E5%9C%B0%E6%96%B9
 (注13)フルン湖。「現地のモンゴル族は「ダライ・ノール(達頼諾爾)」(海のような湖)と呼んできた。フルン・ノール(呼倫湖)は比較的新しい名称<。>・・・中華人民共和国内モンゴル自治区北東部フルンボイル市にある大きな淡水湖。・・・内モンゴルでは最大、中国でも五本の指に入る大きな淡水湖である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%B3%E6%B9%96

 <さて、>鮮卑の中心をなす遊牧民はもともと遼東の北のシラムレン河<(注14)>に住んでいて、2世紀中ごろ、檀石槐のときに大きく勢力を拡大し、モンゴル高原に及んだ。・・・

 (注14)「内モンゴル自治区東部を流れる河川。遼河水系に属し、老哈河(ラオハ川、ラオハムレン)と合流した後に西遼河となる。シラ・ムレンとはモンゴル語で「黄色い川」を意味する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%83%B3%E5%B7%9D

 <他方、>拓跋部<が、その>形成期<である>・・・三世紀中頃・・・に住んでいたところは、<シラムレン河よりかなり南西に位置する>内モンゴル南部のフフホト<(注15)>の周辺である。・・・

 (注15)「16世紀にアルタン・ハーンによって築かれた南モンゴルの古都フフホトと、近隣の4つの県、1つの旗(ホショー)によって構成された中華人民共和国の地級市のひとつであり、内モンゴル自治区の省都、直轄市<。>・・・モンゴル語で「青い城」を意味<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%95%E3%83%9B%E3%83%88%E5%B8%82

拓跋部はみずからを鮮卑とした。
 しかしそれはもともとシラムレン河にいた鮮卑が拓跋部になったものではないし、ましてや大興安嶺にいた遊牧民が南下してきて拓跋部になったものでもない。
 三世紀中ごろにフフホトあたりにいた遊牧民が拓跋部をつくり、そこではじめて鮮卑を名乗ったというのが私の理解である。」(32~33、40~42)

⇒このくだりは、著者の「理解」に敬意を表したいと思います。
 強盗一味、山賊団が、国の支配者に成り上がった時に「系図」(注16)をでっちあげた典型が、北魏の世祖のケース、で納得です。(太田)

 (注16)「その昔、黄帝の子は25人おり、その一人である昌意の末子が北土の大鮮卑山に封ぜられ、そこから鮮卑と号すようになった。その後代々君長を立て、広漠の野を統治し、牧畜と狩猟を生業とした。黄帝の末裔である始均は堯の時代に入仕した。始均が女魃(ひでりの神)を弱水の北に駆逐すると、民が彼を頼ったため、舜はこれを喜んで、命じて田祖とした。秦漢の時代になり、始均の子孫は獯鬻・獫狁・山戎・匈奴の属国となり、代々残暴で(むごく荒々しく)、<支那>を害したので、中国との国交を断絶した。67世の後、拓跋毛が大人(部族長)となり、36国、大姓99を統べ、北方に威を振った。数代の後、大人の拓跋推寅は大澤に南遷する。それより数代の後、大人の拓跋鄰は神人より移住することを勧められたため、息子の拓跋詰汾に命じて南へ遷移させ、拓跋部は匈奴の故地に移り住むようになった。
 173年、拓跋詰汾は狩りの途中で天女と遭遇し、その天女との間に拓跋力微を授かる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E8%B7%8B%E9%83%A8
 「拓跋力微<(174~277年)は、その>・・・玄孫の拓跋珪が北魏を建国すると、始祖の廟号、神元皇帝の諡号を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E8%B7%8B%E5%8A%9B%E5%BE%AE

(続く)