太田述正コラム#13638(2023.7.31)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その6)>(2023.10.26公開)

 「・・・神元帝<(拓跋力微)>の死後、拓跋部のリーダーは神元帝の子孫によって世襲されていく。
 継承にあたっては、先代のリーダーが死んだときリーダーにふさわしい能力(年齢・性格・母親の出自など)を備えている人物が、部族長たちによって選出される。・・・
 西晋の・・・八王の乱<を契機とする>・・・304年の匈奴劉淵の自立から、439年の北魏による華北統一までを五胡十六国時代という。・・・
 310年・・・、穆帝<(ぼくてい)(拓跋猗盧(注17)(たくばついろ))>は・・・西晋から大単于・代公に封じられ、・・・山西省北部・・・の土地をもらい、ここに10万家(約150万人)の遊牧民を移した。・・・

 (注17)?~316年。王在位:315~316年。「北魏の道武帝より穆皇帝と追諡された。・・・
 長男の・・・拓跋六脩に・・・殺され・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E8%B7%8B%E7%8C%97%E7%9B%A7

 さらに315年・・・、穆帝は西晋から代王の爵位をもらった。
 ここに代国が成立する。
 <しかし、翌316年、穆帝は殺害されてしまう。>
 <その>316年・・・、西晋が滅亡した。・・・
 <第8代の>昭成帝<(注18)>が・・・殺されて代国は瓦解し、前秦の支配下にはいった<が、>・・・<同>帝の没後10年の386年・・・、拓跋珪<(注19)>は牛川(内モンゴル自治区ウランチャップ)にて代王に即位した。・・・

 (注18)拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん。318~376年:王在位:338~376年)。「北魏の太祖道武帝の祖父である。道武帝より廟号を高祖、諡号を昭成皇帝と追号されている。・・・
 庶長子の拓跋寔君により、拓跋什翼犍・・・殺害された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E8%B7%8B%E4%BB%80%E7%BF%BC%E7%8A%8D
 (注19)たくばつけい(道武帝。代王:386年、魏王:386~398年、大魏皇帝:398~409年)。「即位後、部族民による合議制を廃して中央集権化を目指す一方で、それまで野蛮と言われた民族の習慣を打破するために漢民族の文化を積極的に取り入れた。また、多民族統一の手段として仏教を積極的に取り入れ<た。>・・・
 409年、・・・次男の清河王拓跋紹が宮廷クーデターを起こして珪を殺害したが、拓跋紹も兄(珪の長子)の拓跋嗣(後の明元帝)に捕らえられて殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%AD%A6%E5%B8%9D

 そのわずか3ヵ月後の4月、・・・代国から魏国へと国号を変更した・・・。・・・
 皇太子選びに<は>北魏独自のルールがある。
 それが子貴母死<(注20)>(しきぼし)と呼ばれるものである。・・・

 (注20)「前漢の武帝が外戚をはびこらせないために幼い皇太子の母親を殺した前例がありますが、漢王朝はこれを制度化したわけではありません。しかし北魏では、個性的な初代皇帝・道武帝がこれをおこない、さらに息子の明元帝も続けたことで、制度として事実上定着しました。・・・
 「子貴母死制」の導入後、北魏では数十年にわたって皇太后や外戚の専横はありませんでした。・・・
 <しかし、>実例を見る限り、正妻たる皇后は嫡子を産んでいないのです。子貴母死制が適用されたのは、多くの場合は漢人の女性で、後宮内の序列もあまり高くありませんでした。皇后を殺すのは、さすがにまずいということだったのでしょう。」(会田大輔(1981年~)。明大院博士(史学)、日本学術振興会特別研究員を経て、明大・東洋大・山梨大等非常勤講師。専攻は支那南北朝隋唐史)
https://president.jp/articles/-/52311?page=3

 子貴母死<には>・・・もう一つ狙いがあった。・・・
 代国時代の後継者は、能力・年齢・母親の出身などをもとに、部族長たちが選んでいた。
 拓跋氏のなかから選ばれるとは言え、継承の仕方に定まった順番はなかった。
 そのため必ずしも直系子孫に引き継がれていなかった。
 そこで道武帝は、自分の子供、さらに孫と直系子孫に確実に継承されるよう、あらかじめ後継者を決めることにした。
 その際に母親を殺すという代償を払うことで、後継者選びを神聖化したのである。・・・
 殺された生母の扱いはどうなるか。
 子供が皇帝に即位すると、皇后の称号をもらって宗廟に祭られる。
 また生母の一族に対しては、爵位があたえられて優遇される。
 ただし政治的な権限は与えられなかった。」(51~52、56、70~71、86)

⇒拓跋部のリーダーは自分の子供に殺される方がむしろ普通だったわけですし、その拓跋部が作った王朝である北魏では皇帝による嫡男の母たる妃殺しが制度化されていた、とくれば、遊牧民は、家畜を殺すのが日常生活だったために、人を殺すことへの心理的ハードルが低かったのではないか、と言いたくなってきます。(太田)

(続く)