太田述正コラム#13644(2023.8.3)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その9)>(2023.10.29公開)

 「・・・五胡に奪われた中原を取り返したという輝かしい功績をもって、420年、劉裕<(注29)>は<東晋の>禅譲により皇帝に即位した。
 南朝最初の宋である。

 (注29)363~422年。宋皇帝:420~422年。「劉裕は・・・419年1月・・・、・・・<東晋の>安帝を暗殺、その弟・・・を新たな皇帝(恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾、さらには・・・420年・・・6月に恭帝の禅譲を受け、皇帝に即位した。また帝位を退いた恭帝を零陵王に降封したが、翌年の・・・421年・・・9月にはこれを殺害した。・・・『後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人の陶淵明も劉裕に仕えていた。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。・・・
 土断などの経済政策で財政の再建も成し遂げている。一方で政敵の粛清の苛烈さや東晋二帝(安帝・恭帝)の暗殺、いちど奪還した長安と洛陽の即時失陥についての批判も受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%A3%95
 「東晋および南朝の各王朝は、移住者に対しても現住地で戸籍を編成し、豪族の私有民となることを防ぐとともに、課税の対象にしてその軍事・財政強化をはかった。このように現住地で戸籍に編入することを土断法というが、東晋そのものが流寓者の政権であるため桓温や劉裕のような実力者でなければ手を付けられなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%AD

 以後、南朝では、軍事権を掌握した軍人のトップが禅譲を強いて皇帝に即位する。
 その一方で、官僚の上層部は貴族たちが占めた。
 つまり皇帝の家は交替したが、南朝社会そのものは、貴族制のものと大きな変動なく推移したのである。
 家柄によって階層が固定化した社会を貴族制社会という。
 三国魏にはじまる官僚の選抜方法である九品官人法<(注30)>(九品中正)は、西晋以降、父祖の官職や家柄をもとに選ぶものに変容していった。

 (注30)「この法は尚書・陳羣の建議により、曹丕が曹操から魏を継承したすぐ後に施行されたものである。同じ年に後漢から禅譲が為され、曹丕が皇帝位に上っている。
 この法は官僚を最高一品官から最低九品官までの9等に分類する(これを官品と呼ぶ)。同時に郡ごとに中正官と呼ばれる役職を任命し、管内の人物を見極めさせて一品から九品までに評価する(この人物への評価を郷品と呼ぶ)。後に中正官は司馬懿により郡の一つ上の行政区分である州にも置かれるようになり(州大中正。郡ごとの中正官は「小中正」と呼ばれた)、これが後に述べる貴族層による支配を更に強固なものとしてゆく。この制度では中正が非常に大きな役割を占める事から、この制度を九品中正制とも呼ぶ。
 この郷品を元に官僚への推薦が行われ、最初は郷品の四段階下から始まる。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ所まで出世し、それ以上は上れないようになっている。
 この制度の目的は、後漢から魏へと移行するに際し、後漢に仕えた官僚たちの能力と魏に対する忠誠度を見極めて人材を吸収する事。漢代の郷挙里選制では地方の有力者の主導で官僚の推薦が行われていたがこれを政府主導に引き寄せること、漢代の徳行主体の人事基準から能力主体の基準へと移行することなどがあると言われている。・・・
 魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は才能ではなく、親の郷品と、本人の性格が重視されるようになった。しかも、時代が下がるにつれ親の郷品が特に重視されるようになった。こうして郷品の世襲が始まり、豪族層が変化して貴族層を形作るように流れていった。・・・
 九品官人法は主に南朝で継続された制度であるが、北魏の孝文帝は部分的にこの制度を取り入れて貴族層の形成を図っている。・・・
 北魏滅亡後の北斉になると試験制度が部分的に取り入れられるようになり、隋代に入ると科挙制度が成立して九品官人法は完全に廃止された。
 なお、九品に官僚を分ける制度はその後も受け継がれ、冠位十二階や位階など後の日本にも影響を及ぼしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81%E5%AE%98%E4%BA%BA%E6%B3%95
 「郷挙里選(きょうきょりせん)は、・・・漢代に行われていた官吏の登用制度のひとつである。地方の高官や有力者が、秀才や孝廉などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E6%8C%99%E9%87%8C%E9%81%B8

 そのため「上品に寒門なく、下品に勢族なし(上級官職には下流のものはいないし、下級官職に貴族はいない)」という状況が生じた。・・・

⇒遊牧民は軍事を中心とする実力主義、農耕民は農地所有の広狭に応じた貴卑主義、が、南北朝時代には、前者は北朝で次第に主流となり、後者は南朝で維持され続け、その結果、北朝によって南朝が併合され統一がなった、と、取敢えず、私は見ています。(太田)

 420年、江南で宋が建国されたころ、華北では北魏がほぼ全域を支配下。
 これ以降、589年に隋が南朝の陳を平定して中国を統一するまでを南北朝時代とよぶ。
 東晋と南朝のはじめには、五胡に奪われた中原を取り戻す北伐が何度か行われたが、宋の文帝<(注31)>の北伐が失敗におわると、中原回復は不可能であると気づく。」(110)

 (注31)407~453年。皇帝:424~453年。「学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、南朝宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は「元嘉の治」と呼ばれている。・・・長男である皇太子の・・・劉劭によって殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B8%9D_(%E5%8D%97%E6%9C%9D%E5%AE%8B)

⇒そんな北朝がどうして、速やかに南朝の併合ができなかったか、ですが、拓跋部(鮮卑)は「実力主義」でも、「非実力主義」の漢人を隷下に抱えてしまったため、その統治制度の確立に試行錯誤の時間を要したからではないか・・対して後のモンゴルは漢人の統治なんぞに関心はなかったので侵略的軍事行動を南宋を含め、全方位に向けて続けることができた・・、というのが、これまた、取敢えずの私の考えです。(太田)

(続く)