太田述正コラム#13668(2023.8.15)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その4)>(2023.11.10公開)

 「・・・煬帝<(注6)>は、父・・・文帝<(注5)>・・・の政策をことごとく変えていった。

 (注5)楊堅(541~604年。隋初代皇帝:581~604年)。「楊堅が生まれた・・・場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であり、・・・乳母役を引き受けて養育したのが智仙という尼僧であったという。このようなことから、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。
 また、・・・その般若寺は北周の武帝の廃仏によって廃毀されたが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしみ、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立した<。>・・・
 578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、・・・<やがて、>静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握し<、>・・・581年2月、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋朝を開いた。同月中のうち、<北周の宗室を何人も殺害した。>
 楊堅は大興城(後に長安)を都として定めた。そして587年には後梁を、589年には陳を滅ぼして、西晋滅亡以来約300年にわたり乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功した。598年には高句麗に対し第1次高句麗遠征を行った。
 楊堅は内政にも力を注いだ。まず、開皇律令を公布、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けた。さらに貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとした。また、仏教の興隆にも尽力し、その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%A0%85
 「南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを以って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
 (注6)楊広(569~618年。第2代皇帝:604~618年)。「隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「総持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。・・・
 洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し京杭大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾・林邑・流求(現在の台湾、一説に沖縄)などに出兵し版図を拡大した。
 さらに612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わ<った。>・・・
 618年、煬帝は末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された。宇文化及を盟主に推戴した司馬徳戡・裴虔通らが、故郷への帰還を望む驍果(近衛兵)を率いて実行した政変であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
 「煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝侗、秦王楊浩も、それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B

⇒文帝も煬帝も「イデオロギー」という基本において、親仏教政策を採った点において共通しているところ、それは言い過ぎではないでしょうか。(太田)

 彼は、北魏の洛陽城の西側に、あらたな洛陽城を建設し、大運河を完成させて、洛陽と江南をつなげた。
 このような政策をとったのは、煬帝の関心が遊牧文化になく、漢人固有の中国古典文化にそそがれていたからだという。
 これは、北魏の孝文帝が「漢化政策」をおしすすめたときの状況と似かよっており、隋という世界の中で疎外感や差別をひしひしと感じる人びともいたことだろう。
 そのため、煬帝に対して反乱をおこした人びとの中に、西魏・北周・隋という政権の中核をになった者もいたのである。
 いいかえれば、隋末の群雄のうち、そういった人びとは、鮮卑・拓跋の復古という意識を、多かれ少なかれもっていたのではないだろうか。」(25~26)

⇒著者が、「漢化」を定義していないので断定はできないけれど、煬帝が文帝に比して、漢化政策を採ったとは言い難いように思います。
 私の結論は、「漢」についてのシリーズを手掛けた後に下すことにしましょう。(太田)

(続く)