太田述正コラム#13678(2023.8.20)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その9)>(2023.11.15公開)

 「・・・太宗の妻<の一人であった>・・・武氏<を>・・・高宗<(注17)は、>・・・後宮に入<れ、>・・・昭儀と<した>。・・・

 (注17)628~683年。「父太宗の晩年にあたる貞観17年(643年)、皇太子であった李承乾は、父の寵愛の篤い魏王李泰をねたみ、武力を以て除こうとして失敗した。承乾は皇太子を廃され、泰も排斥された。承乾と泰の母である長孫皇后の兄の長孫無忌の進言もあり、やはり長孫皇后の子である第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、太宗の死にともない皇帝に即位した。太宗に溺愛された異母兄の呉王李恪(隋の煬帝の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。・・・
 ・・・663年・・・、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝利する。乾封元年(666年)、泰山にて新羅王や倭王他を従え封禅を行う。総章元年(668年)、新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる(唐の高句麗出兵)。こうして朝鮮半島のほとんどを版図に収め、安東都護府を設置、唐の最大版図を獲得した。しかし、新羅が唐との同盟を破棄し、・・・676年・・・に朝鮮半島全土を統一を達成(唐・新羅戦争)したため、ついに朝鮮半島経営を放棄した。
 この時期になると、外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。のちに丹薬による中毒で眼病を患い、健康をそこなった皇帝のもとで実権は完全に武后により掌握された。このような状況のなか・・・崩じた。
 病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫無忌、その後は皇后の武則天に実権を握られ続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97_(%E5%94%90)

⇒高宗の封禅に参列した倭王が誰だったのか、興味があります。
 白村江の戦いで一旦日本が滅びたという説に私は乗っている(コラム#省略)ところ、その日本が事実上主権を回復できたのは、新羅が高宗を「誘って」対高句麗戦に乗り出させ、日本に占領軍を駐屯させる余裕が唐にはなくなったたおかげですし、日本が完全に主権を回復したのは、新羅が唐に戦争を挑んだおかげである、と、言えそうですね。(太田)

 このことが、史書では道徳にもとると非難されるのだが、それは儒教的価値観をもつ者たちの一方的な見方である。
 遊牧民の風習では、亡父の妻を子供が娶ることは、ありうることであった。
 ・・・当時の宮廷には、唐の皇室に遊牧文化の空気が依然としてのこっていたことが指摘できるかもしれない。・・・
 <こうして>後宮に入った武<(注18)>昭儀は、・・・自分が生んだ女児を殺し、その罪を王皇后になすりつけ、高宗をだきこんで、王皇后を廃位せんとした。・・・

 (注18)624~705年。「利州都督武士彠と楊氏(楊達の娘)の間に次女として生まれ、諱は照。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の武照は父から高度な教育を与えられて育った。・・・
 貞観11年(637年)、太宗の後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった。ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。
 太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。
 その頃の宮中は帝位を継いだ高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(九嬪の一つ、正二品)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。
 ・・・655年)・・・6月、高宗は武照を昭儀から新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相の韓瑗と来済の反対で実現はしなかった。同年、中書舎人の李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗・崔義玄・袁公瑜らの大臣が結託して高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問した。
 この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后長孫氏の兄で高宗の伯父にあたる長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良、高祖と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人であった。下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した。
 10月13日・・・、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。
 11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、惨殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9

 さすがに長孫無忌<(注19)>はこれをゆるさず、この計画は、一度は頓挫する。」(91~92)

 (注19)?~659年。「唐の太宗の長孫皇后の兄<。>・・・
 長孫氏<は、>・・・北魏の道武帝により宗室の長とされ、関隴集団中においても、貴顕中の貴顕とされる門地であった。・・・
 617年・・・、唐の高祖李淵が太原で起兵して長安を奪うと、長春宮で謁見を受けて、渭北道行軍典籤に任じられた。李世民の征戦に従軍し、比部郎中に累進し、上党県公に封ぜられた。・・・626年・・・の玄武門の変のとき、房玄齢・杜如晦らとともに襲撃の計画を定めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AD%AB%E7%84%A1%E5%BF%8C

⇒支那三大悪女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%B8%89%E5%A4%A7%E6%82%AA%E5%A5%B3
中の武則天の残虐さは、もう一人の西太后と共に、遊牧民系のそれであると言えなくもなさそうですが、残りの一人が、漢人の呂雉(りょち)(呂后)である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89
ところ、呂雉は一種の突然変異である、と、思いたいところです。(太田)

(続く)