太田述正コラム#13700(2023.8.31)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その20)>(2023.11.26公開)

 「・・・「安史の乱」が終結する9か月ほど前、玄宗粛宗があいついで亡くなると、長男<の>皇太子・・・があとをついだ。
 代宗<(注44)>(在位762~779年)である。

(注44)726~779年。「父の粛宗が皇帝として即位すると兵馬大元帥に任じられ、郭子儀らと共に安慶緒により占拠されていた長安や洛陽などを奪回した。このとき回紇族を援軍として招き入れていたことが、後々の外患の原因の一つとなっていく。また、安史の乱の残党勢力討伐のために河北三鎮などの節度使の援助を求めたことから、節度使の権力を増長させてしまうことになった。
 758年・・・、粛宗の皇后張氏と宦官の李輔国により立太子され、762年に玄宗と粛宗が相次いで崩御すると皇帝として即位した。しかし、朝政は李輔国が掌握していた。国政を自ら掌握しようとした代宗は、宦官である程元振を抜擢、謀反を理由に李輔国を誅殺した。だがこの粛清も、結局は程元振が朝政を掌握したに過ぎず、続いて重用された宦官である魚朝恩の場合も同様であった。このような内廷での粛清は、宦官の権力増大の原因といわれている。
 外交面では763年・・・に、吐蕃の侵攻により長安を一時的に奪われ、章懐太子李賢の孫の李承宏(在位:763年11月18日 – 763年11月30日)が帝位に据えられる事件が発生している。これは宦官が軍権をも握り、武将の軍功への論功を抑制するなど、武官を冷遇したため辺境防備が弱体化した結果である。
 その後、代宗は財政再建のために塩の専売化を初めとする様々な政策を実行したが、抜本的な財政健全化は実現しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E5%AE%97_(%E5%94%90)

 代宗の即位に大きくかかわったのが、宦官の李輔国<(注45)>(りほこく)だった。

 (注45)704~762年。「元来は宦官である高力士の僕役として宮廷に入り、・・・後に太子李亨に入侍した。安史の乱の際に玄宗が蜀に逃亡した際、李静忠は太子に随い馬嵬駅(現在の陝西省咸陽市興平市)へと逃れ、太子に対し楊国忠の殺害を進言し、唐朝の復興に尽力した。太子が・・・即位する(粛宗)と、李静忠はその功績から元帥府行軍司馬に任じられ兵権を掌握、そして名も輔国と改めた。
 安史の乱が終結し粛宗に随い長安に戻った李輔国・・・は察事庁子を設置し、官人の活動を監視するようになった。まもなく玄宗が長安に戻り太上皇となったが、玄宗復位を恐れた李輔国は玄宗に対し西内太極宮に移ることを迫り、また玄宗が親信していた高力士らを免官にしている。
 ・・・762年・・・、玄宗が崩御すると、粛宗もまた病床につくこととなる。この事態に張皇后は、太子の李豫(代宗)の殺害と越王李係の擁立を画策する。これに対し李輔国は、太子豫を即位させ、張皇后と李係を殺害する。このようにして権力基盤を不動にした李輔国は、その言動に傲慢さが表れ、これが代宗の不興を買い、禁軍の一部を掌握した程元振によるクーデターにより失脚、後に刺客により殺害されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%BC%94%E5%9B%BD

 これをきっかけに宦官が政治の表舞台に登場するようになることは特筆される。・・・

⇒日本は内廷・・後の幕府における奥向きを含む・・の官吏に宦官ではなく女官を起用し、かつまた、内廷の官吏に表向きの公務をさせなかったこと、もあって、宦官はおらず、従って、宦官の専横、とも無縁でした。(太田)

 「安史の乱」がおわった年の10月、唐の都長安が、チベット帝国軍に突如として占領されるという大事件がおきる。・・・
チベット帝国で・・・ディソンデツェン(在位756~797年)が・・・ツェンポに・・・即位したあと、内政を安定させたチベットは、河西と隴右(甘粛省東部)へ進出し、これらの地をことごとく勢力下にいれていった。
 チベットの勢力伸長をおさえるため、「安史の乱」がおわる直前、唐はチベット帝国と盟約をむすび(762年)、毎年、絹五万匹をあたえることを約束したという。
 しかし、唐にこの歳賜を準備する余裕などあるはずがなかった。
 逆に盟約違反を口実に、チベット帝国は、唐へ侵入したのだった。・・・
<この代宗は、>塩の専売をはじめ<る。>・・・
 <また、>漕運改革を命じ<、>・・・大・・・運河にたまった泥さらい、堤防の修築、船や倉庫の修繕、輸送にかかわる労働者を、塩の専売によって得られた費用で雇ったのだ。・・・
 代宗が病死すると、長男・・・があとをついだ。
 第9代皇帝の徳宗<(注46)>(在位779~805年)である。・・・

 (注46)742~805年。「両税法を施行し税制面の改革に着手した。また節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。このため784年に『罪己詔』を発して、節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。 反乱鎮圧後に、国民が乱に巻きこまれたのは自身の間違いのためだとして謝った。徳宗の改革は短期間で失敗に終わり、さらなる財政的に困難な状況を生み出した。そして節度使の権力は更に強まり、唐の権力は一層の弱体化に見舞われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AE%97_(%E5%94%90)

 徳宗<は、>・・・税目を一つにまとめ<る>・・・両税法<を導入した。>・・・
 従来の両税法の解説は、銭納が原則であるが、貨幣が十分に普及していなかったため、穀物や絹織物・麻布などでの代納があった、と説明されてきた。
 しかし、近年の財政史研究者たちの見解では、貨幣と穀物による二本立ての納税制度だったという説が、支持されている。
 両税法以前は、農民がおさめる租や調の額が決っていたので、戸籍で人口をしっかりと把握しておけば、国家歳入の総額を割り出すことができ、それによって支出を決めていたのである。
 それに対し、両税法がおこなわれるようになると、唐朝はあらかじめ1年ごとの支出額を計算し、それによって税を徴収するようになった。
 しかし、実際にはせっかく年度予算をたてても、それほど財政がしっかりとしていなかったため、一度決めた税額が固定してしまうなどの事象も見られた。
 また、両税法は、書類上の戸籍で把握された人びとではなく、実際にある場所に住み、土地をもっている者を把握して課税した。
 これは、農民の土地所有をみとめることになり、それまでの中国の歴代王朝がとってきた大土地所有を制限するという政策を、大きく変えるものだった。
 逆にいえば、土地をもたない人(小作人など)は課税されないし、また人びとは本籍地から自由に離れることも可能となる。
 このことは、唐の後半期、社会が流動的になっていく情勢と呼応するものであった。
 そして、大土地所有の公認<により>、荘園が発達していくこととなる。」(204~205、207~208、218~221)

⇒唐の均田法を形の上では継受した日本は、実質的に同法・・日本では班田収授法・・を実施しなかった(コラム#省略)けれど、唐ではもちろん本当に実施していたところ、日本とは違って、両税法の実施により、唐の土地制度は公有制から荘園制へと本当に変って行ったというわけです。(太田)

(続く)