太田述正コラム#13724(2023.9.12)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その3)>(2023.12.9公開)

 「・・・私は歴史関係の論著を、理科系的歴史学・文科系的歴史学・歴史小説という三つの範疇に分類している。
 「知の地平」を拡大させるという意味では三者に優劣はないが、区別は歴然としてある。
 理科系的歴史学というのは、原典史料に基いて緻密に論理展開され、他人の検証に十分堪えうる、つまり理科系でいう「追実験」を可能にする学術的論著を指す。
 しかし、前近代の歴史史料というのはほとんどが偶然残ったものであり、必要な史料がないことの方が普通であるから、歴史というストーリーを組み立てるにはどうしても空白を埋めるための「推論」をせざるをえない。
 その推論に学問的良心を堅持するのが文科系的歴史学であり、責任をもたないのが歴史小説である。

⇒ネットで少しあたってみた感じでは、このような区分をしている歴史学者は著者だけのようです。
 ある意味、それ、当たり前であって、著者の言う「推論」をする必要がない「理科系的歴史学」なんて、ほぼあり得ないからです。
 一例だけ挙げますが、「「漢〈改行〉 委奴〈改行〉 國王」と刻されている・・・日本で出土した純金製の王印(金印)」なる「原典史料に基<づく>緻密に論理展開され<た>」「学術的論著」が、偽造説を含め、入り乱れていて、収拾がつかなくなっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
ところ、これらの「学術的論著」は、全て、「学問的良心を堅持<した>」「推論」、でもあるのではないでしょうか。
 要は、歴史学は一本であって、歴史小説と対置される、ということです。
 ついでに言えば、一切、原典史料の発見・解釈に携わらず、歴史学者が提供する原典史料とその解釈を踏まえて、歴史に係る推論を行うところの、私のような人間は、かねてから自称してきた(コラム#省略)ように、歴史評論家、と呼ばれるべきでしょう。
 ですから、歴史関係の論著には、歴史学、歴史評論、歴史小説、がある、ということになりそうです。(太田)

 歴史小説<家は、>・・・あちこちに事実誤認や願望を含む曲解があっても、それらに対して彼らは一切責任をとらない。・・・

⇒その戦争論/9条論からすると、著者は、典型的な歴史小説家である、と同時に、(望むらくは、ですが、)理科系的歴史学者でもある、ということになりそうですが・・。(太田)

 世界史の再構築をめざす歴史学会ではすでに常識化し、最近では一般にも知られるようになった術語に「中央ユーラシア」がある。
 ユーラシア・・・と地中海を挟んだ北アフリカとを合わせてアフロ=ユーラシアというが、そこが近代以前の主要な世界史の舞台である。

⇒アフロ・ユーラシア(Afro-Eurasia)を「アジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸の総称。この3大陸は陸続きなので、オセアニアおよび南北アメリカに対して用いる名称。旧大陸ともいう。面積は日本列島、東インド諸島、マダガスカル島、イギリス諸島などの大島を除き約8000万平方キロメートル余。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2-1500691
とするのが普通ですが・・。(太田)

 いわゆる「四大文明」はすべて、この中の乾燥地域で大河の流域に発生した。
 中央ユーラシアとは、ユーラシアないしアフロ=ユーラシア全体の中央部分という意味であり、大興安嶺の周辺(満州西部を含む)以西の内外モンゴリアからカスピ海周辺までの内陸アジアに、南ロシア(ウクライナ)~東ヨーロッパ中心部を加えた領域である。・・・
 中央ユーラシアは、・・・砂漠地帯と・・・草原地帯とからなり、・・・<その>草原と佐幕の代表的なものを東から西へ順に見ていくと、大興安嶺周辺~モンゴル草原~ジュンガル草原~天山山脈内部草原~カザフ草原~ウラル草原~南ロシア草原~カルパチア草原の草原ベルトがあり、その南側にゴビ砂漠~タクラマカン砂漠~キジルクム砂漠<(注2)>~カラクム砂漠<(注3)>の砂漠ベルトがある。

 (注2) Kyzyl kum Desert。「カザフスタン、ウズベキスタン、それにトルクメニスタンの一部にかけて広がる砂漠。キジルクムはテュルク諸語で「赤い砂」を意味する。
 面積は約29万8000 km2。北東にシルダリヤ川、南西にアムダリヤ川が流れている。金や天然ガスといった資源が眠り、川やオアシス周辺では農業がおこなわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A0%E7%A0%82%E6%BC%A0
 (注3)Karakum Desert。「トルクメニスタンにある砂漠である。Kara kumとはテュルク系の言語で「黒い砂」を意味する。
 面積は350,000 km²で、同国の国土の約70%を占める。「死の砂漠」の別名を持つことでも知られている。
 西はカスピ海、北はアラル海とトゥラン低地、北東にはアムダリヤ川とキジルクム砂漠がある。
 牧畜地帯だが、アムダリヤ川からのカラクム運河によって灌漑農業も発達している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%A0%E7%A0%82%E6%BC%A0

 松田壽男<(注4)>(ひさお)によって提唱された天山=シル<(注5)>河線というのは、まさしくこの草原地帯と砂漠地帯を分けるラインなのである。・・・

 (注4)1903~1982年。東大文(東洋史)卒、同大副手、東洋大余暇教授、東大講師、京城大教官、陸軍予科士官学校教授、早大教授、名誉教授。内陸アジア史学会初代会長、日本イスラム協会理事長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%A3%BD%E7%94%B7
 (注5)「シルダリヤ」18世紀以降に定着した名前であり、・・・シル川、スィル川と表記する場合も見られる。・・・
 天山山脈の2箇所(キルギスと東部ウズベキスタン)に源を発し、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンを通過して北西へ向かって流れ、北アラル海に注ぐ川である。延長は2,212 km。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%A4%E5%B7%9D

 さらにこの砂漠ベルトの南側に、内モンゴル(黄河湾曲部内のオルドスを含む)~寧夏回族自治区~甘粛省~青海省~チベット~カシミール~ガンダーラ~トハリスタン<(注6)>(旧バクトリア)など、草原と砂漠が入り組んだ半草原半砂漠ベルト地帯が連なる。

 (注6)「今日のアフガニスタン北部,アムダリア中流域をさす地名。ペルシア語でトハラ (トカラ) 人の土地を意味する。南北朝時代の中国の史書には吐火羅,玄奘の『大唐西域記』には覩貨邏の名でみえる。古来東西交通路の中心としてバクトリア,大月氏 (→月氏 ) ,クシャン朝などがこの地に栄えた。なお『大唐西域記』などによれば,タリム盆地東部にもトハラ人の土地があったことは確かであるが,これと上記トハリスタンと関係があるかどうかは不明である。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3-105608

 つまり中央ユーラシア全体では、北から草原ベルトと砂漠ベルトと半草原半砂漠ベルトが三重構造になっているといえよう。」(44~45、53~54)

(続く)