太田述正コラム#13750(2023.9.25)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その16)>(2023.12.22公開)

 「・・・隋の煬帝と唐の大宗・・・が、名実ともに世界一の大領土・人口を押さえ、大運河による世界一の経済力を手中にしながらも、なにゆえ内政充実に向かわず外政に固執したのだろうか。
 そこに私は、軸足を完全に農耕地帯に移し、文化的に漢文化と融合しながらも、遊牧国家すなわち武力国家の本質を失わなかった隋と初期の唐帝国の姿を見る。
 一時的ながらこの時代にはゴビ砂漠という天然の国境が消えたのであり、それは後のモンゴル帝国・元朝と清朝にのみ見られる現象であることに注意したい。
 煬帝は吐谷渾と突厥の制圧にはある程度成功したものの高句麗遠征に失敗して自らの墓穴を掘り、太宗もまた吐谷渾と東突厥を滅亡させることに成功しながら高句麗遠征(645、647、648年の三次)では、生涯唯一ともいえる敗北の苦杯をなめさせられた。
 以後も唐は、再興した突厥(第二帝国)<等の>・・・遊牧民集団ないし国家との間で戦争と和親を繰り返し、いずれにせよ莫大なエネルギーと金銭財物を注ぎ込むことになるのである。
 これは唐側から見ればいうまでもなく浪費であるが、周辺に流れ込んだ金銭財物はシルクロード貿易の活性化に直結したのである。
 唐皇帝が名実ともに天可汗であり、唐が真の世界帝国たりえたのは、8世紀中葉の安史の乱までどころか、ほとんどを父・太宗の遺産に頼った高宗の時代まで、すなわち府兵制を基礎とする都護府・都督府・鎮戌防人制<(注34)>(ちんじゅぼうじんせい)によって羈縻支配が実効力を維持し得た7世紀に限定されるのである。

 (注34)「府兵は折衝府において農閑期に訓練を受けるほか、一年に一~二ヶ月、衛士(えいし)として首都の防衛にあたった(番上という)。また府兵は在任中に三年間、防人として国境の鎮や戌で警備にあたった。府兵は折衝府の置かれた州(軍府州)の均田農民から徴発され、租庸調は免除されたが、武器・食料などは自弁とされた。折衝府の置かれていない州(非軍府州)もあったが、唐王朝は狭郷(耕地の少ない地方)から寛郷(耕地のゆとりある地方)への移住は認めたが、軍府州から非軍府州への移住は認めず、府兵の確保につとめた。しかし、周辺諸民族との戦争が続いたので、府兵となる農民負担は大きく、徴兵忌避が各地で起こっていた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-045.html

 7世紀末の則天武后時代に突厥が復興して強大な突厥第二帝国が出現してからも、唐の東トルキスタン経営は順調であり、文化的には尤も華やかな時代を迎えるが、その盛唐といわれる玄宗の治世(開元・天宝年間)においてさえ、すでに帝国衰亡の芽はきざしているのである。・・・
唐の詩人たちを興奮させた胡姫・・・は、・・・イラン系の言語・・・を話す地方出身の女性たちであった。
 従来の歴史物・唐詩解説書・各種辞典類においては、イラン系といってもほとんどは西アジアのペルシア人とみなされてきたが、最近の歴史学・考古学の成果によれば、それはむしろ中央アジアのソグド人を指すとみなすべきである。
 特にめざましい考古学的成果は、胡旋舞<(注35)>(こせんぶ)ないし胡騰舞<(注36)>(ことうぶ)をモチーフにした浮き彫りのある石製葬具が、中国北部の陝西・山西・寧夏で発見されたソグド人墓からいくつも出土したことである。

 (注35)「主に女性によって舞われた。西域から伝わった音楽の管弦や太鼓の音に従い、軽い布をつけ、急速な速度で旋回する踊りであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E6%97%8B%E8%88%9E
 (注36)「絨毯の上で、高く飛び上がり舞う、アクロバットな踊りであった。「胡児」によって踊られたという記述があるため、女性ではなく、男性の踊りだった説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E6%97%8B%E8%88%9E

 また、かつてササン銀器といわれたものの多くが、実はソグド銀器であったということもこの際参考になろう。・・・
 西域の歌舞・音曲・雑技は遠く漢代から中国に流入し始め、南北朝時代にかなりの流行をみるが、なんといっても盛んになるのは隋唐代である。
 音楽についてはどちらかといえば東トルキスタン諸国の影響が優勢であるが、舞踊に関して目立つのは西トルキスタンのソグド諸国である。
 そのうち唐代になって初めて記録にみえるものに胡旋舞がある。・・・
岸辺成雄<(注37)>「は、唐代音楽にもっとも造詣が深<いが、>・・・次のよう<に指摘している>。

 (注37)きしべしげお(1912~2005年)。東大文(東洋史)卒、一高教授、東大教養学部助教授、東大博士(文学)、同大教授、名誉教授、帝京大教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E8%BE%BA%E6%88%90%E9%9B%84

 唐代の「合奏の楽器編成は、今日の日本雅楽の管弦(8種)よりもはるかに豊富なものであった。しかも、笙(しょう)のほかに、和声を奏する楽器があったと考えることもできるのであるから、和声的な大管弦楽が、唐代音楽の主体であったといえる。同じ時代(7~9)世紀)のヨーロッパでは、単旋律の教会声楽が支配的であったことを考えあわせると、唐代音楽の先進性を想像することができよう。」・・・」(192~193、203~205、218)

⇒残念ながら、「「和声」をより広義に解釈した場合、西洋音楽以外の音楽で多声性をもった楽曲にも和声的現象を認めることはできるが、そこでは和音の配列の方法や和音の相互関係の方法などがほとんど考慮に入れられていないため、「和声」とはいいがたい。」
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E5%A3%B0-154108
で終わりでしょう。(太田)

(続く)