太田述正コラム#13772(2023.10.6)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その2)>(2024.1.1公開)

 「「漢の三傑<・・蕭何・張良・韓信・・>」の活躍により、劉邦が勢力を増大していく以前、秦の滅亡後に実権を掌握した項羽は、<秦の>郡県制を廃止すると、劉邦たちを王に封建した。

⇒これは、一時的に支那が封建社会化した、ということにはならないような・・。
 劉邦達が、与えられた領地を、更に、自分の部下達に分配したわけではなさそうだからです。(太田)
 
 <自分の出身の>楚<(注1)>に強く残る氏族制社会[共通の祖先をもつ血縁集団である氏族を基本単位とする社会]<(注2)>に対応するために封建制を復活したのである。<(注3)>

 (注1)「項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であり、項羽の祖父は楚の将軍項燕である。・・・<項羽は、>叔父の項梁に養われていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD
 (注2)「父系(男系)の同族集団。本家と多くの分家(小家族)から成り、本家の家父長(族長)が統率し、祖先崇拝という信仰で結びついている。このような宗族の守るべき規範が宗法である。実際には擬制的(みせかけ)であったらしいが、宗族の結びつきの原理は血縁関係であった。このような氏族社会の上に周の封建制が形成される。そして、春秋から戦国にかけて、鉄製農具の普及などによって生産力が向上したことが、個々の小家族の自立を可能にし、宗族という氏族社会が解体し、地縁的な村落機構を通して統一国家が農民を支配する形態に移行していく。しかし、<支那>では現代に至るまで、一族意識は強固に残っている。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-027_0.html
 (注3)「血縁的な社会関係である宗族を基盤としていることが周の封建制の特徴である。・・・<他方、>中世<欧州>の・・・封建制<は、>領主間の主従関係と領主と農奴の関係である農奴制から成り立つ社会制度<である>・・・。中世<欧州>の封建制の中核となる主従制度は、個人間の双務的な関係であることが周の封建制と異なる本質である。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-026.html

⇒殷も周も、封建制国家ではなく、邑制国家(注4)、と呼ばれるべきでしょう。

 (注4)「邑<(ゆう)>とは村や町をさす語で,通例は土城で囲まれていた。邑の大きなものが都で,中心となる都邑が国と呼ばれた。国には大小の属邑が隷属しており,これを鄙邑と呼んだ。国は王公とその一族を中心とした支配層 (卿大夫 ) および士,農,工,商などの国人が居住し,宗廟と社稷の祭祀によって族団的社会組織が保たれていた。周辺の鄙邑もまた宗族的組織をもち,国に対しては一定の賦税の義務を負った。国の政治は王公,卿,大夫によって行われたが,重大事には国人も政治に参加し,戦士もまた貴族と国人のなかから任じられた。国の勢力が増大すると (諸侯の発展) ,貴族にも一定の鄙邑<(ひゆう)>が采邑として与えられた。国と国との関係は盟約によって結ばれ,その盟約の指導者が伯 (覇) 者と呼ばれた。周の王室は一族を主要な国の支配者として封建することにより,諸邑制国家を支配したのであるが,周王室の衰退とともに国々が独立化し (諸侯の時代) ,覇者が政治の中心となった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%82%91%E5%88%B6%E5%9B%BD%E5%AE%B6-144775

 私見では、邑制と封建制との最大の違いは、第一が、主従関係が個人間の契約関係なのか氏族内の上下関係ないしは氏族と氏族の間の上下関係なのか、第二が、統治が領域的支配に立脚しているのか大きな都市による小さな都市群支配に立脚しているのか、に存する、という感じでしょうか。
 この違いのよってきたる原因は、先進ローマ帝国地域を「蛮族」のゲルマン人が支配した西欧と比較して諸「蛮族」が跳梁を続けた黄河流域の安全保障環境がより苛烈だったので、後者においては、領域の一円的支配を行うことが容易ではなかったところにあるのではないでしょうか。
 ですから、四囲を城壁で囲まれた邑内にすぐ逃げ込むことができるところの、邑を取り巻く狭い地域・・農地・・にしか、邑外に邑人は居住していなかった、ということなのでしょう。
 そして、それ以外の邑と邑の間の地域には、言葉も碌に通じない、武装した遊牧民や狩猟採集民達、が闊歩していた、ということだと思います。(太田)

 また、懐王<(注5)>を殺して、自ら「西楚の覇王」と称した。・・・

 (注5)義帝(?~BC206年)。「楚の滅亡後は地方に逃れて、羊飼いとして暮らしていた。秦末の動乱期に楚の名家の末裔項梁に担がれ、・・・紀元前208年・・・楚王に即位し、祖父(一説では高祖父)の名を受け継ぎ、懐王を名乗る。・・・
 定陶で項梁が戦死すると、宋義を大将に任じた。秦を滅ぼす段になって、「懐王之約」<・・>秦の首都咸陽に一番乗りを果たした者に秦の本貫の地・関中を与えるというもの。<・・> を発布した。
 紀元前207年、劉邦が咸陽に一番乗りして、秦王子嬰を降伏させ、その後に項羽が咸陽に入った。 懐王は約を実行するよう諸将に命じるも、項羽はこれを無視し、劉邦を左遷するなど自ら独断で諸侯を封建し、自身は「西楚の覇王」を名乗った。
 懐王は義帝として即位するも実権を持たず、項羽に疎んじられ彭城を出て僻地の長沙に転居することを迫られた。義帝はやむなくこれに従うも、その道中で項羽に派遣された<者>に殺害された。・・・
 義帝の死により、反秦勢力の実質上の盟主もしくは秦滅亡後の中国の実質上の元首としての項羽の政治上の正統性が失われた。これによって楚漢戦争で劉邦は大逆を犯した項羽を天に代わって討ち果たすという大義を得ることとなり、項羽の滅亡ひいては漢王朝の成立へとつながっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%B8%9D

 項羽を飲み込んだ「時」の流れは、秦の孝公の宰相を務めた商鞅の改革から始まる。
 秦<による支那>統一の基礎を築いた商鞅の変法<(注6)>は、・・・前359・・・年に始められた。」(11、15)

 (注6)「第一次変法ではさまざまな政策により、氏族制社会(血縁関係を基礎とする社会)を解体しました。
 分異(ぶんい)の令…2人以上男子のいる庶民の家を分家させ、氏族制に基づく大家族を解体するという政策。
 什伍(じゅうご)の制…5家を単位として徴税・徴兵し、互いに監視させました。こうして血縁ではなく他人同士が組織されて、中央の役人の支配を直接受けさせるという政策。
 軍功爵(ぐんこうしゃく)…君主の一族も含めた支配者層に対して、軍功に応じて爵位を与え、軍功がなければ支配者としての戸籍をはく奪するという政策。・・・
 上昇志向エネルギーの渦巻く社会の基盤を作ったのが商鞅でした。
 中原から遠く離れ元蛮族の地であった秦はもともと氏族制が弱かったのですが、この改革により氏族制は解体され、一国において君主のみに権力が集中する強力な独裁政権が作られました。・・・
 第二次変法は、第一次変法によって兵士は強くなり農業生産力は上がり、富国強兵が成功して秦の大国化が進んだのを受けて、君主の権力をさらに強めるために行われました。
 たとえば分異の令の徹底化。
 さらに県を31か所に設置。そこに一代限りの役人を派遣して直接統治し、王権の基盤としました。」
http://chugokugo-script.net/rekishi/shouou.html

⇒話を、周の建国まで遡らせる必要がありそうです。
 「周の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、西方の遊牧民を意味する。古公亶父は、戎・狄に攻められて岐山の下に移り、はじめて戎・狄風の生活形態である遊牧を改め、都市を建設し、北方狩猟民出身の殷を倒して取って代わった周が、西方遊牧民出身であることは明白である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E
 つまり、周そのものが、西方遊牧民・・西戎(!)の走りと言っても良さそうです・・による征服王朝だったわけですが、その後の周/秦の歴史の転轍手となったのも、大抵は西戎だったようです。

(続く)