太田述正コラム#13912(2023.12.16)
<映画評論95:オットーという男>(2024.3.11公開)

1 始めに

 今回取り上げる、「『オットーという男』(・・・A Man Called Otto)は、2022年の<米>国のコメディドラマ映画<で、>フレドリック・バックマンの小説『幸せなひとりぼっち』を原作とした2015年のスウェーデン映画『幸せなひとりぼっち』のハリウッドリメイク。マーク・フォースター監督、トム・ハンクス主演兼製作」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%94%B7 α
です。

2 本題

 人間主義者とは一味違う、傍若無人な好意的おせっかい、が登場した瞬間から米国映画としては違和感を感じていたのですが、スウェーデン映画のリメイク(上出)で、原作者のバックマンもスウェーデン人であること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3
を知り、少しは腑に落ちた思いはしつつも、舞台がスウェーデンだったとしても不自然さは同じではないのか、と違和感の完全解消とはいきませんでした。
 ちなみに、バックマン(1981年~)は、「スウェーデンのコラムニスト、ブロガー、小説家」です。(上掲)
 案の定、原作の『幸せなひとりぼっち』では、傍若無人な好意的おせっかいはイラン人女性とその家族だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%BC%E3%81%A3%E3%81%A1 γ
ので、恐らくはこの小説のスウェーデン映画版でもそうなっていたと思われ、ようやく疑問は解消しました。
 『オットーという男』では、イラン人女性(夫はスウェーデン人)とその家族(上掲)に代わって、メキシコ人女性(夫は米国人)とその家族(映画)を登場させることによって、不自然さの一定程度の軽減は果たしていましたがね。
 面白いのは、この映画の英語ウィキペディアには「メキシコ人女性」という記述が一切なされていないことです。
https://en.wikipedia.org/wiki/A_Man_Called_Otto β
 その女性の名前がMarisolとは書かれているのですが、「マリソルは主にスペイン系の女性名(Marisol)。スペイン語で「孤独のマリア」を意味する”María de la Soledad”の短縮形に由来する。スペイン語で「海と太陽」を意味する”mar y sol”に引っ掛けたかばん語<・・合成語が語の語基を完全に保って2語を組み合わせたものであるのに対し、かばん語は語の一部分同士を組み合わせる点で異なる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B0%E3%82%93%E8%AA%9E
・・>でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%AB
と言っても、米国にはスペイン系米国人だっているのですから、彼女が中南米出身だとは断定できないわけです。
 この点では邦語ウィキペディア(α)の方が、英語ウィキペディア(β)に引きずられつつもほんの少しばかりはより「誠実」であり、「マリソル・・・らは彼にメキシコ料理を差し入れ<た>」という記述が出てきます。
 ちなみに、この映画に登場する、主人公オットーの男性の「親友」・・どうして「」付かは映画をご覧いただきたい・・、は、その妻もそうですが黒人であるところ、βもαも一切そのことへの言及がありません。
 どうやら、現在の米国には、チカノ(ラティノ)や黒人をポリティカル・コレクトネスの観点から映画にできるだけ登場させる努力はする一方で、書き物はできる限りカラー・ブラインドにする、という不文律めいたものが存在しているのではないでしょうか。
 閑話休題、この映画の主題は何か。
 それは、「陽気な彼女の遠慮のない言動に何度も自殺を邪魔された<ところの、>・・妻を亡くし、職も失って生きる希望をなくし<てしまってい>た・・<主人公>は彼女の存在を疎ましく思うが、彼女とその家族と接するうちに徐々に心境に変化が生まれてくる。」(γ)からお分かりのように、女性に比しての男性の生物としてのひ弱さ、不完全さ、であって、それは、男女逆なら絶対に小説にも映画にもなりえない主題である、と、言っていいでしょう。