太田述正コラム#13974(2024.1.16)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x10)>(2024.4.12公開)

 (参考1)屈原

 BC343~BC278年?。「楚の武王の公子瑕(屈瑕)を祖とする公族の1人・・・。屈氏は景氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった(これを三閭<(さんりょ)>)と呼ぶ)。家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。
 当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚の外交方針について、臣下は二分していた。 一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)である。屈原は親斉派の筆頭であった。当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。
 屈原は秦は信用ならないと必死で説いたが、受け入れられない。屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した・・・。懐王17年(紀元前312年)、丹陽・藍田における(丹陽・藍田の戦い)の大敗後、一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫<(注22)>へ左遷され、政権から遠ざけられた。

(注22)「戦国時代、楚の官名。楚の王族、昭・屈・景の三氏を管理した。」
https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%85%B8/content/54_878

 秦は懐王に縁談を持ちかけ秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は・・・秦に行き、秦に監禁されてしまった。
 王を捕らえられた楚では太子横を頃襄王として立てた。頃襄王の令尹(丞相)として屈原が嫌いぬいた子蘭が着任したため、更に追われて江南へ左遷された。頃襄王21年(紀元前278年)、秦により首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望し、5月5日の端午に石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。屈原の強烈な愛国の情溢れる詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作とされる『離騒』は後世の愛国の士から愛された。
 後に5月5日の命日には、屈原の無念を鎮めるため、人々は楝樹の葉に米の飯を五色の糸で縛って、川に投げ込むようになった。これがちまきの由来といわれる。また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」という故事が由来であると伝えられている。・・・
 屈原の伝記や、楚辞を屈原が作ったとする伝承には疑問が提出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F

 (参考2)楚の衰退

 「戦国時代に入ると人口の比較的希薄な広大な国土に散らばる王族・宗族の数や冗官(俸給のみで仕事の無い官職)が多くなり過ぎ、国君の権力と国の統制が弱化した。他の六国では世襲でない職業官吏や、魏の文侯、秦の恵<文>公などの開明君主に代表される他国出身者の要職登用が成立していたが、戦国時代を通じて令尹(宰相)就任者の大多数が王族であり、それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、旧態依然とした体制を変えられず権力闘争に明け暮れた。
 戦国初期は呉に郢を落とされた時代から引き続いて国威が振るわず、魏や韓によって領国北部の淮河流域を奪われ、潁川流域の陽翟や梁などを奪われた・・・。
 やがて呉起が魏から亡命してくると、悼王の信任を得て前記の弊害を除去する国政改革を断行し、君主権を強め非効率な体制を改めることに成功する。しかし、悼王が死ぬと呉起は殺され、非効率な体制と各地に独立した権力を持つ封建領主が散在する旧情に復した。改革によってある程度国威を回復した楚は、淮河中流域の失地回復は果たせなかったが、長江や淮河の下流域への拡張を推し進め越など諸国を併呑している。
 20代目の懐王の時代、圧倒的な強国となってきた秦に対しどう当たるかで親秦派と親斉(田斉)派に家臣は二分した。親斉派の筆頭は屈原であり、懐王に対し秦は信用ならないことを強く説いたが、親秦派の後ろにいた秦の宰相・張儀の策略により屈原は失脚し、地方に左遷された。諌める者がいなくなった懐王は張儀の策略にいいように踊らされ、最後は秦に幽閉されて死去した。
 その後も秦の攻勢は強くなる一方で、紀元前278年に白起<(後で説明)>により首都の郢を陥され、陳に遷都した。
 その後は春申君<(前出)>の主導の下に楚・魏・趙などの連合軍が秦へ出兵したが失敗し、寿春へ遷都した。春申君が死ぬとまともに国政を執れる者がいなくなり、秦の王翦<(後で説明)>将軍に項燕(項羽の祖父)が敗れ、最後の王・負芻は捕虜となる。秦に仕えていた公子・昌平君が大将軍項燕に奉じられて楚王と名乗るが、秦軍に鎮圧され、紀元前223年に滅びた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)

⇒繰り返すが、一旦、楚も打倒し天下(華夏)を統一した秦が、すぐに、項羽や劉邦のような楚人によって打倒され、劉邦を祖とする漢が長期にわたって統一を維持するのだから、屈原の楚ナショナリズムが最終的には勝利を収めるわけだ。(太田)

(続く)