太田述正コラム#13976(2024.1.17)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x11)>(2024.4.13公開)

 (二)後史2:昭襄王

 (このあたりからは、昭襄王その人を含め、『始皇帝 天下統一』自体の評論中で既に取り上げている人物達も少なくないが、取り上げられていない魏冄や范雎らに焦点をあてる形で改めて紹介しておきたい。)

 BC325~BC251年(在位:BC306~BC251年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B
 「魏冄(ぎぜん・・・)は、・・・宣太后<(前出)>(恵文君夫人)の弟で、恵文君の義弟に当たる。宣太后の一族の兄弟、甥の中でも最も賢かったため、恵文君の時から職に任ぜられ、国政に携わった。
 武王4年(紀元前307年)、武王が急逝し、その弟たちで王位継承争いが起こった。その際に魏冄だけが燕にいた昭襄王を擁立した。魏冄の導きで、昭襄王は王位についた。魏冄は将軍となり、咸陽の守備にあたるようになった。
 昭襄王は年少で即位したため、母である宣太后が摂政し、その弟であった魏冄が実権を握るようになった。
 昭襄王2年(紀元前305年)、先の後継者争いに敗れた公子壮は兄弟の公子雍ら昭襄王の即位に不満を抱く勢力を結集し、反乱を起こした(庶長荘の反乱、季君の乱)。この乱は魏冄らにすぐに鎮圧され・・・全て滅ぼされ、武王の母の恵文后<(前出)>も処刑、武王后<(前出)は故国の魏に追放され、この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。
 ・・・昭襄王12年(紀元前295年)に魏冄は宰相となった。
 昭襄王14年(紀元前293年)、魏冄は白起を登用した。・・・
 昭襄王31年(紀元前276年)には相国となり、秦では魏冄に並ぶものがいないほどの権勢を誇るようになった。・・・
 <やがて>范雎が昭襄王に取り立てられ、宣太后が専制であること、魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るい、魏冄の弟の華陽君や、昭襄王の弟の高陵君・涇陽君らが奢侈で王室よりも裕福なことを述べた。范雎を信任した昭襄王は魏冄の相国位を罷免し、華陽君・高陵君・涇陽君らを函谷関の外に追放し、それぞれの封地に移住させた。
 魏冄は封地の陶で天寿を全うした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%86%84

⇒魏出身と私が見ている恵文后は殺され魏出身の武王后は魏に追放されたのに対し、楚の王族の宣太后も魏冄も、秦国内で天寿は全うしたのだから、昭襄王の時の秦を舞台にした魏と楚の戦いは楚の全面勝利で決着した、と言ってよかろう。(太田)

 范雎(はんしょ。?~BC255年?):「<魏で生まれ、ひどい苦労をした後、秦で>昭襄王<に>・・・「穣侯<(魏冄)>は<、秦は>いま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と・・・遠交近攻策<を>・・・進言<し、王は、これを>・・・受け入れた<。>・・・
 <その後、>范雎は昭襄王に対して、穣侯たちを排除<するよう説き、王はそれを実行した>。こうして王権の絶対性を確立し、国家が一纏めとなった秦は、門閥の影響が大きい楚など諸国を着実に破っていくことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E

 (参考1)白起

 はくき(?~BC257年)。「秦国郿の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。王翦・廉頗<(後出)>・李牧<(後出)>と並ぶ戦国四大名将の一人。・・・
 昭襄王47年(紀元前260年)、長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。しかし、本国にあった宰相の范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都の邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。
 昭襄王48年(紀元前259年)、秦は王陵を起用して邯鄲を包囲し、昭襄王49年(紀元前258年)には増派もして、さらに指揮官を王齕<(おうこつ)>に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と昭襄王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。
 だが、これがさらに立場を悪くし、昭襄王50年(紀元前257年)、ついに昭襄王によって賜死を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%B5%B7

 (参考2)王翦

 おうせん。「秦の・・・頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。・・・秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど、秦の天下統一に貢献した。・・・
 王翦は政の猜疑心の強さと冷酷さを良く理解して<おり、>・・・楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来た・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BF%A6

⇒秦は四周を敵ないし潜在敵に囲まれており、しかも、秦は関中にあって西方は狄戎、北方は北狄の匈奴、東方は黄河文明の中原諸国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F
と長江文明に起源を持つ楚、という多様な、従って、兵器も戦術も多様な軍事力に対抗する必要があり、自ずから、その軍は精強たらざるをえなかった、と言えよう。
 かかる背景の下、秦は、白起や王翦といった名将を輩出したわけだ。(太田)