太田述正コラム#13978(2024.1.18)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x12)>(2024.4.14公開)

 (参考3)廉頗

 れんぱ。「趙の武将。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%89%E9%A0%97
 藺相如(りんしょうじょ)。「「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる。・・・
 藺相如は胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに[宝物「和氏の璧」]を守り通し、趙の面子も保ったのである。正しく「完璧」(<漢>語では「完璧帰趙」)な対処といえよう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%BA%E7%9B%B8%E5%A6%82
「<その功績で、藺相如は、>趙王に仕える宦官の食客から上卿(大臣級)に昇格した。しかし歴戦の名将である廉頗は、口先だけで上卿にまで昇格した藺相如に強い不満を抱いた。それ以降、藺相如は病気と称して外にあまり出なくなった。
 ある日、藺相如が外出した際に偶然廉頗と出会いそうになったので、藺相如は別の道を取って廉頗を避けた。その日の夜、藺相如の家臣たちが集まり、主人の気弱な態度は目に余ると言って辞職を申し出た。だが藺相如は、いま廉頗と自分が争っては秦の思うつぼであり、国のために廉頗の行動に目をつぶっているのだと諭した。
 この話が広まって廉頗の耳にも入ると、廉頗は上半身裸になり、いばらの鞭を持って、「藺相如殿、この愚か者はあなたの寛大なお心に気付かず無礼をしてしまった。どうかあなたのお気の済むまでこの鞭で我が身をお打ちあれ」と藺相如に謝罪した。藺相如は「何を仰せられます、将軍がいてこその趙の国です」と、これを許し、廉頗に服を着させた。廉頗はこれに感動し「あなたにならば、たとえこの首をはねられようとも悔いはござらぬ」と言い、藺相如も同様に「私も、将軍にならば喜んでこの首を差し出しましょう」と言った。こうして二人は互いのために頸(首)を刎(は)ねられても悔いはないとする誓いを結び、ここに「刎頸の友」という言葉が生まれた。この二人が健在なうちは秦は趙に対して手を出せなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%8E%E9%A0%B8%E3%81%AE%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8A
 「孝成王4年(紀元前262年)、秦の侵攻により韓本土と分断された上党の守・馮亭は、自領ごと趙へ降り戦に巻き込むことを画策。孝成王は・・・上党を接収。秦側と長平の戦いが勃発する。趙軍を率いる老将廉頗は秦側の遠征軍の不利を衝き、疲弊を待つ持久戦に徹した。
 孝成王6年(紀元前260年)、孝成王は秦側の流言に乗せられ廉頗に替えて趙括を将軍に任じて攻勢に転じようとする。この人事には先王の代に対秦外交で活躍した藺相如も、死の床にあった身を押して参内し強く反対<し>・・・たが、孝成王は将軍交代を強行。その結果、秦の将軍白起に戦術を見切られた趙括軍は大敗。趙括とともに討ち死に、あるいは補給を絶たれた餓死や仲間同士で食らい合い、投降者も生き埋めにされ、少年兵240人を除いて、40万を超える趙軍は壊滅という事態を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%88%90%E7%8E%8B_(%E8%B6%99)
 「その後、藺相如は病死した。また、廉頗はしばらく趙を支え秦に侵攻させなかったが、<孝成王の子の>悼襄王とうまく行かず、その後魏や楚へ亡命することになった。
 そして、名臣・名将と大量の兵力を失った趙は弱体化し、連年秦に侵攻され、幾度かはそれに耐えるが、ついに滅亡することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%BA%E7%9B%B8%E5%A6%82 前掲

 (参考4)李牧

 りぼく(?~BC229年)。「李牧は代郡・雁門郡に駐屯した期間、軍を率いて匈奴を大敗させた。また、肥下の戦い・番吾の戦いで秦を大敗させ、武安君に受封された。・・・当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。・・・だが、最終的には・・・秦<から>・・・賄賂<を受け取った、>・・・奸臣の郭開<(注23)と>・・・王母の悼倡后<(注24)の>・・・讒言を信じた幽繆王によって殺害された。

 (注23)かくかい。「紀元前245年、趙の名将であった廉頗は、悼襄王の不当な人事により解任されたことを怨み、後任の将軍である楽乗を破って趙を出奔した。だがこのため、趙に名将がいなくなって秦の標的とされたため、悼襄王は廉頗を呼び戻すため使者を送った。悼襄王の使者の前で元気な姿を見せて帰参を承知した廉頗であったが、廉頗が趙にいた頃から対立していた郭開は、この使者を買収して悼襄王に対して「三度遺失」と虚偽の報告をさせた(廉頗が使者の前で3度小用に立った。廉頗が使者の前で3度失禁したという2つの意味がある。どちらの意を取るかは諸説あって不明)。このため、悼襄王は廉頗が使い物にならないと判断して帰参を許さなかった。・・・
 郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだといえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E9%96%8B
 (注24)とうしょうこう(?~BC228年)。「姓名は不詳。邯鄲の倡<(遊女)>出身であったが、最初にとついだ婚家の一族を混乱させて、寡婦となった。その美しさが悼襄王の目に留まり、王は彼女をめとろうとした。李牧がこのことを諫めたが、王は聞き入れず、彼女を迎えた。
 その後、倡は入内して姫となり、公子遷(後の幽繆王)を生んだ。だが、さきに悼襄王の王后の生んだ子の公子嘉が太子となっていた。倡姫は悼襄王の寵愛を受けていたことから、ひそかに王后と公子嘉のことを王に讒言し、人を使って公子嘉を罪に陥れた。悼襄王は公子嘉を廃嫡し、公子遷を太子に立て、王后を廃位して倡姫を后に立てた。
 紀元前236年、悼襄王が死去し、公子遷が趙王として即位した。これが幽繆王である。
 紀元前229年、倡后は幽繆王に讒言し、李牧を殺害させた。倡后は悼襄王の兄の春平侯と私通し、秦の賄賂を受け取っていた。
 紀元前228年、秦軍が邯鄲を陥落させ、幽繆王は捕らえられた。趙の大夫たちは、倡后が公子嘉を誣告したことや李牧を殺させたことを恨んでいたため、倡后を殺してその家を滅ぼし、公子嘉(代王嘉)を代で擁立した。
 紀元前222年、代王嘉が秦軍に捕らえられ、趙は完全に滅亡することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E5%80%A1%E5%90%8E

 李牧の死後、趙の首都邯鄲(現在の河北省邯鄲市)は秦軍によって陥落し、幽繆王は捕虜となり、趙は滅んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%89%A7

⇒趙が、大国であり、かつ、廉頗と李牧といった名将を擁しながら滅亡の憂き目に遭ったのは、藺相如が任じられていないことや郭開が任じられていることから、宰相の人事に遺漏があったことを含め、孝成王、悼襄王、幽繆王、の三代の国王がいずれも、(王后の選択一つとっても、)同時期の秦の諸王に比較して無能だったからだと言えよう。

 なお、趙もまた、秦同様、四周を敵ないし潜在敵に囲まれていた大国であり、しかも、東と南は中原諸国、西は秦、北は匈奴、という多様な勢力であり、秦同様、精強な軍を擁せざるをえなかった、と言えるのであって、廉頗や李牧といった名将の輩出はかかる環境の産物だったと考えられる。(太田)