太田述正コラム#13980(2024.1.19)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x13)>(2024.4.15公開)

 稷下<(しょくか)>の学士の場面も印象に残っています。↓

 「紀元前4世紀、斉の盛時をもたらした威王や宣王は、各地から多くの学者を集めた。これらの学者には、臨淄<(りんし)>の13の城門のうち西門の一つである稷門の近く(稷下)[に学堂を建て、]・・・邸宅が与えられ、多額の[生活費]を支給して学問・思想の[論争・]研究・著述にあたらせた。こうした学者たちは「稷下の学士」「稷下先生」などともよばれ、・・・[荀子・・・もここで学び,・・・宣王時代の鄒衍(すうえん),淳于髡(じゆんうこん),田駢(でんべん),慎到らはとくに有名である。]・・・
 稷下の学士たちは日々論争し、人々はこれを百家争鳴と呼んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B7%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%A3%AB
https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B7%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%AD%A6-80098 ([]内)


[呂氏春秋]

呂氏春秋(りょししゅんじゅう)は、「戦国諸家の説を集めた一種の百科全書。26巻。戦国末の四君(<魏の>信陵君<(注25)>,<楚の>春申君<(前出)>,<趙の>平原君<(注26)>,孟嘗君<(注27)>)が食客<(注28)>を集め勢力を有していたことに対抗して,秦の丞相呂不韋(りょふい)が食客を集め,・・・孔子が編纂したという『春秋』にならって・・・彼らに編纂させた。前239年ころに完成<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%82%E6%B0%8F%E6%98%A5%E7%A7%8B-150145 (下の[]内も)

 (注25)「信陵君(しんりょうくん<。>? ~紀元前244年)は、・・・戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。・・・
 兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えた。・・・
 信陵君が抱えた食客の中には、のちに前漢の功臣の一人となる張耳も含まれていた。・・・
 <紀元前258年には、魏で魏の平原君と一緒に戦い、>秦軍を退けた。・・・
 <紀元前241年の第二次>函谷関<の戦いでは、>・・・五カ国の軍をまとめて秦の蒙驁を破った。・・・
 前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%99%B5%E5%90%9B
 (注26)「平原君(へいげんくん、? – 紀元前251年)は、・・・戦国時代の趙の公子で政治家。・・・恵文王の弟。食客を集めて兄の恵文王、続いて甥の孝成王<(前出)>を補佐した。・・・
 <その>食客・・・の中には・・・毛遂<や>・・・<名家の>公孫竜や<陰陽家の>鄒衍などもいた。・・・
 紀元前259年、秦軍は更に趙の首都の邯鄲を包囲した。窮地に陥った趙王に命じられ、救援を求めるために平原君が楚へ派遣されることになった。平原君は連れて行く食客二十人を選んでいたが、難事であるため厳選したこともあって、もうひとりが決まらない。この時に食客の一人の毛遂という者が同行したいと名乗り出てきた。平原君は「賢人というものは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ来てから3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい」と断った。毛遂はこれに「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ」と答え、この返答が気に入った平原君は毛遂を連れて行くことにした。これが「嚢中の錐」の原典である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E5%90%9B
 (注27)「孟嘗君(もうしょうくん、? – 紀元前279年)は、・・・戦国時代の公族・政治家。・・・斉の威王の孫にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%98%97%E5%90%9B
 (注28)「食客(しょっかく、しょっきゃく)は・・・戦国時代に広まった風習で、君主たちが才能のある人物を客として遇して養う代わりに、主人を助けるというもの。門客(もんかく)とも言う。 彼らの中には任侠の志を持つ者が多く、場合によっては、命を差し出すこともあった。逆に主人を裏切り殺害することもあった。
 多数の食客を抱えたことで有名な人物は、戦国四君(斉の孟嘗君、 趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)、秦の呂不韋などがいる。彼らの食客は俗に三千人と言われた。
 食客は、その土地に封土を有さないため、諸侯などの「館(『官』が原字)」に起居し、「官」の起源となった。また、生計を封土からの収穫ではなく、その特別な技術・才能からの報酬により立てたので、「論客」「剣客」「刺客」等の語源ともなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%AE%A2

 「その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる[が,かかる百科全書的な書(類書)は,分裂から統一への風潮を背景として出てきたものといえる。]
 天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。[人々をして自然の大道を知って、人倫実践の規範を悟らしめることを目的とし<、>・・・養生・全生保真を説き変法の必要をいい現実を重視する。]また「刻舟求剣」などの寓話や説話も収録されている。・・・
 呂不韋は完成後に一般公開し、一字でも添削ができれば千金を与えると公言した、これが「一字千金」の由来とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E6%B0%8F%E6%98%A5%E7%A7%8B

⇒稷下の学士達は学堂に集った文系の研究/教育者とその卵で、戦国末の四君の食客達は文系の政治家志望者で、呂不韋の食客達は政治家志望者達とその中から「選抜」されることもあるところの(理系を含む)政治行政百科編纂者達であった、ことから、戦国末の食客の類型には三種類のものがあったと言えよう。

 この三類型を通じて欠如していたのは、理系の理論研究/教育者だ。(太田)