太田述正コラム#14002(2024.1.30)
<映画評論115:孫子兵法(その2)>(2024.4.26公開)

 その次に出てくる「史実」で興味深いのは、楚の平王<(注4)>とその佞臣の費無忌<(注5)>、秦の公女で平王の后となる伯嬴<(注6)>の物語です。↓

 (注4)平王(~BC516年)。「公子弃疾は兄霊王の命で陳や蔡を滅ぼして、陳公や蔡公を名乗ったり、斉で悪名を鳴らして呉に亡命していた慶封を攻めて処刑するなど、霊王の手足として活躍していた。
 しかし、霊王の連年の出兵による不満が国内中に高まったのを感じ、秦から帰国した兄の公子比や公子黒肱(子皙)は、霊王12年(紀元前529年)に霊王不在の隙を突いて霊王の太子禄を暗殺、楚王となった比こと訾敖により、弃疾は司馬に任じられる。その直後の5月18日、弃疾は「王(霊王)が帰国して、新王を処刑する」との流言飛語を都に流して訾敖と令尹子皙を自害へと追い込み、翌5月19日に自らが楚王として即位する。
 平王6年(紀元前523年)、弃疾こと平王は太子建の妃を秦から迎えるため、少傅の費無忌を秦に遣わした。しかし費無忌は秦の公女伯嬴の美しさを見て、この公女を平王自身が娶るよう進言した。平王も公女の美しさを気に入り、自らの側室としてしまった。これにより平王は、費無忌を厚く信頼するようになった。また費無忌は、この一件で建が自分に恨みを向けるのではないかと恐れ、平王に対して建を讒言するようになった。このため、平王は国境警備の名目で建を城父に遠ざけた。その後も費無忌は、建が平王に妃を奪われたことに恨みを抱いて謀反を企んでいると讒言した。この時、太傅の伍奢にも監督責任が及び、平王は伍奢を捕らえ、子の伍尚・伍員(子胥)をも呼び寄せて殺そうとした。だが伍子胥はこれに応じず呉に亡命したため、伍奢・伍尚を処刑した。これが伍子胥の楚への復讐の火種となり、同時に平王の輿望も衰え、呉による侵攻を防ぎきれなくなり、国力衰退の端緒を作ってしまう。
 平王13年(紀元前516年)9月に病没。昭王10年(紀元前506年)の柏挙の戦いで呉軍が楚の都郢を占領した時、伍子胥は平王の陵墓を暴き、その遺体を300回も鞭打ったといい、これが「死人に鞭打つ」の語源である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 (注5)費無忌(ひむき。?~BC515年)。「平王に仕えた奸臣として有名である。・・・
 最初は平王の子である太子建の少傅(太子の副教育係)を務めていた。少傅の上の太傅<(たいふ)>には伍奢(太子の教育係)が就いていた。・・・
 平王13年(紀元前516年)に平王が薨去し、伯嬴が産んだ幼少の昭王が即位すると、臣民の間で費無忌を恨む声が爆発。翌年に令尹(楚の宰相)の嚢瓦は国民に申し開きをする意味で費無忌を誅殺したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BB%E7%84%A1%E5%BF%8C
 (注6)伯嬴(はくえい。?~?年)。「秦の哀公の娘として生まれた。・・・
 伯嬴は熊珍(のちの昭王)を生んだ。
 昭王10年(紀元前506年)、楚軍と呉軍が柏挙で戦い、呉が楚に勝利した。呉軍が<伍子胥とともに>楚の首都である郢に侵入し、昭王は随に逃亡した。呉王闔閭は郢の後宮にいた女性たちを手籠めにした。順番が伯嬴に回ってくると、伯嬴は刃を持って自殺の覚悟を示し、君王の節義を説いたので、闔閭は恥じ入って退出した。伯嬴はその乳母とともに宮中の門を閉ざし、衛兵にも武装解除させなかった。昭王11年(紀元前505年)、秦軍が救援にやってきて、呉軍は撤退し、昭王が郢に復帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%AC%B4
 「楚の昭王は・・・<母方の祖父である>秦<の哀公>に救援を要請してきた。・・・
 この時、楚の大夫である申包胥<(しんほうしょ)>が泣きついて来て、[哀公<が>援軍を断る<と>]一杯の湯さえも口にせず、7日間過ごした。[その様子に心を打たれた哀公は、「楚は無道だがこのような忠臣がいるのであれば滅ぼすべきでない」として、]・・・兵車500乗を送って楚を援助し、呉軍を破った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E5%8C%85%E8%83%A5 ([]内)

⇒この頃、既に、秦と楚の間に縁戚関係が築かれ、しかも、そのことが両国の関係を左右していたことは興味深いものがあります。
 それにしても、秦の哀公が、楚に軍事介入した際、楚を滅ぼさないまでも属国化しなかったことが不思議と言えば不思議です。(太田)

(続く)